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PERFECT DAYS

僕は今までと同じように電話を取っている。
いや、今まで以上に、今までより普通に、電話を取っている。僕はかなり自然に、淡々と仕事をこなせている。
はじめのうちは、薬を飲んでも全然効いているとは思えなかったが、しかし今では、まるで違う自分を手に入れた感じだ。
薬を飲み始めると、一日一日と経つごとに、手足のしびれや、背中の痛みが無くなって行った。些細なことでイライラしたり、感情のコントロールが出来ないということなども、全く無くなって行った。夜もよく眠れるようになっていたのだった。
それだけではなく今では、たとえクレームの電話を取ったとしても、取り乱したりせずに、冷静に対応できる自分がいる。
これまでのように直ぐテンパり、焦りまくって声が裏返って、汗をかきまくり、シャツにワキ汗のシミをつけるというような、無様に応対している自分というのが、どこにも居なくなったのだった。
以前はクレームの電話を取ると、きっと無様に応対している自分の姿を、周りの人は嘲笑っているだろうと思って、みじめな気持ちになって、でもそれをどうにも出来ない能力のない自分の事が、イヤでイヤでたまらなかった。
でもそんな自分が薬のおかげで、どこにも居なくなったのだ。
僕は元から少し異常な人間で、はじめから薬を飲んで矯正すべきだったのだろうか。
それというのも、派遣会社の担当者が、薬を飲んで働くようになってから、僕のことを褒めるからだった。
今ではどこかおどおどしていたような僕はどこにもおらず、落ち着き払った僕がいる。
何事にも動じず、坦々と仕事ができるというのは、素晴らしいことだった。
とにかく薬を飲むと、リラックスできる。
僕は自分でも知らないうちに常に緊張していたのか、薬を飲むようになって、リラックスするというのはこういうことなのか、とわかったような気がした。
薬がよく効いてすごくリラックス出来ているときは、まるで深い温水プールの底にでもいるような感じだ。なにか眠りに落ちる前の、あの、身体と意識が温かく安らいでいく感じが、目覚めているのにずっとつづいていくような感じ。
周りで起こっている事など(僕はすぐ周りのことが気になっていたのに)、すべてどうでもいいことで、どこか遠い場所で起こっている感じがする。まるで僕は温かい水の中にいて、他人はみんな、水の外にいるという感じ。誰も僕を覆う温かい水の中には入って来られず、僕を傷つけることなど出来ない。
だから電話越しになにを言われようとどうってことはない。
でも段々薬の効きが悪くなってしまった。
いつのまにか薬の用量を二倍にすることになった。
薬を飲んでいる僕は、車を運転してはいけないという。それが心に引っかかる。なぜちゃんと働けて、以前より楽でリラックスしている僕が、車を運転してはいけないのだろう。
仕事は淡々とこなせているので、これならこれからもこの仕事をつづけていけそうだった。働かないと食べていけない。薬漬けの僕は、もう他の場所で働くことができない。でもその仕事ぶりを、派遣会社の担当者は褒めてくれている。
朝、いい気持で起きられて、ちゃんと自分でも満足できるように働けて、派遣の担当者も認めてくれて、心に余裕も出来、帰り道に本屋にでもちょっと寄って、これ良さそうだ、という本を買い、家で好きな音楽を聴いたり、映画を観たりして、自分の時間を楽しむ。そして一日一日が過ぎていく。この僕なら、友だちも出来て、もしかしたら彼女も出来て、という気がする。
でも僕は突然逃げ出したくなる。
自分がなんなのかわからなくなる。薬なんか飲みたくないが、薬を飲むしか方法がない。大声で叫び出したいような気にもなるが、それも薬で抑えられている感じがするのだった。
僕は薬を飲むのを止めてしまった。
すると途端にとんでもないことになり、イライラは以前より強い感じでぶり返してきてきた。わけのわからない不安感におそわれ、手足は痺れるどころかふるえるようになってしまった。出もしないのになぜかずっと小便をしたくてたまらなくなり、職場に来ても多くの時間はトイレの個室でふるえているようになってしまった。
 薬を止めたら元通りどころか、薬を飲む前よりひどい。トイレの中でひとり震えていると、涙が出て来る。この涙は、僕の心が流させているのだろうか、それとも薬の副作用なのだろうか。今自分が感じていること、思っていることも、僕がそう感じ思っているのか、それとも薬にそう感じ思わされているのか、判らなくなってくる。
 体の薬なら、体の傷が自然と治る間に、痛みを抑えていて、やがて体が治ると、痛みを抑えていた薬も飲む必要がなくなる。しかし心の薬は、いつ飲む必要がなくなるのだろう。心の傷も、いつか治る時が来るのだろうか。この世の中がつづく限り、僕の心は治らないのだとしたら、僕はずっと薬を飲んで、このまま生きていかないといけないのだろうか。
 ずっとこもっていたトイレから出ると、しばらく出くわしてなかったあのファックス班の女性が、向こうの方から歩いてくるのが見えた。
 女性は僕のことに気づいたようだが、無視するような、見下すような感じで、何事もないかのように通り過ぎて行った。相変わらずいいスタイルをしていた。容姿に自信がある感じで、以前の彼女と変わらない感じだった。
 僕は俯いて、彼女の姿を横目で見送った。
 彼女は僕のことを嫌いだろうとわかっているのに、彼女に今の僕の状態を知って欲しかった。あなたは以前と変わらないですね、これからもずっとそうなんですか、と訊いてみたかった。そんなことをしたら、きっと今度は絶対に僕は辞めなければならないだろう。相手も迷惑極まりないだろう。それなのに、そんなことをもしできたら、と思う僕がいるのは何なのだろう。
 どんどんと遠ざかって行くファックス班の女性の姿を、僕はじっと見つめていた。

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