自由意志などの無きことを

 小学生くらいの幼い頃、起きたとき、自分は昨日まで自分だったのか疑問に思うことが幾度かあった。
 俺は、かぱぴーという人間にたった今なって、かぱぴーという人間が歩んできたであろう過去をたった今脳に埋め込まれたのではないか、と。
 本当は自分はさっきまでは存在しなくて、今記憶を持ってここに誕生したのではないか、と。
 それを『世界5秒前仮説』と呼ぶことを知ったのは高校生くらいになってからだったが、幼い頃の俺にとって、この悩みは常に付き纏うものであった。
 今思えば、このときが自分にとって、明示的な最初のアイデンティティクライシスだったのかもしれない。
 しかし、いまだに、一体自分のなにが自分たらしめているのかに答えは見出せていない。なので今回のnoteもまた、明確な結論のつかない話である。(前回同様自分の中での暫時的な結論は出したいが。)予め謝っておく。すまない。
 しかしまあ、悩みというのは、大抵そういうものでもあろう。それを掘り下げる営みが、文学であって芸術であるはずだし。(ちなみに私かぱぴーは現在芸大に通っています。)

 とまあ、言い訳は置いておくとして、人が人であるために必要な要素とは何であろうか。
 一番明示的なのは、記憶であろう。俺たちの思考や行動は、ある種これまでに培った環境的要因や行動パターンと学習によって統合されているようである。家庭教育や社会教育の必要性を鑑みても、これに大きな反論は無かろう。
 しかし、それではその人が完璧に記憶喪失になったらどうだろうか。その人はその人で無くなるのだろうか。
 しかし、記憶喪失というのも結局は言語や習慣は潜在的行動として残ることが多いらしい。
 それではここで、ある人間のクローンを用意するとする。これは、同じ人間と言えるだろうか? と考えてみる。
 たとえば、パラレルワールドなどがあったとして、そこで全く同じ環境を得て、全く同じ学習をしたなら、それは同じ人と言えるだろう。
 しかし、クローンにおいてはどうだろうか。同一平面としての地球上で、完全に同じ環境因子を与えることはできない。このとき、当人とそのクローンは、果たして同じ人間と言えるだろうか?
 あるいは、何もかも全く同じ環境に別の人を置いたら、似通ってくるのであろうか?
 これはもう実験することのできない以上、それぞれの人々の感覚に起因するだろうが、ここに二つのの決着をつけるとするならば、一つは上記の環境的因子、そしてもう一つは遺伝子、ということになるだろうか。なんだか『利己的な遺伝子』みを持ち始めた主張になりそうなので、そこは当著に当たってもらうとして、ここでは違う部分を考えたい。

 つまり、考えたいところは、自分が自分である、ということについて、我々はなんら自由意志を持ち得ない、ということである。
 環境的要因にしろ、遺伝的要因にしろ、そうした外的要素にしか俺たちは自分を自分たらしめる要素を持っていないのだ。
 これはもちろん、他人と比較することで自分を自分と認識できる、というのにも近しい話ではあるけれど、俺が言いたいのは、そうした比較対象としてのアイデンティティではなくて、本質的な自己性なのである。
 俺たちはそもそも、本質的な自己性を明示的に意志として持ち得ず、ただ内在として持ちうる他ないのである。それは、もはや呪いではないか?
 自分のアイデンティティさえ自らで育てられない俺たちは、ただ盲目的に自己に内在する規定された自分らしさに囚われているのである。

 悩める俺たちは、強くあらねばならない。得られない架空の自由意志のために足掻き、踠くために、そしてそれを架空だと認めざるを得ない現実に耐えうるために、強くあらなければならないのだ。
 もちろん、こんな自己性についてなどの悩みなどない方が良いことは百も承知である。
 しかし、俺のこうしたくどい文章を、同じように悩みながら読んでくれているキミたちのことだから、一度くらいはアイデンティティクライシスに陥ったことはあるだろう。
 俺たちは、強くあらねばならない。それは、込み上げる内的な衝動に、戦慄すべき規定された呪いに、打ち勝つための強さだ。俺たちがどこまでも自由でいられるための、そんな。

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