かぱぴー

浅学非才な一介の芸大生です。少しだけ地球を青くしています。

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最近の記事

somewhere far away

 明けてゆく東の空で徐々に薄くなってゆく四等星みたいに、あるいはサイドミラーの中で少しずつ遠ざかってゆくナトリウム灯みたいに、淡く融けて、消滅できたらいいのに。  本当は何もかも全部を覚えていたくて、何もかも全部を知りたくて、でもそれはできないから、少しずつ諦めていくうちに諦める癖がついていって、それで、こんな人間になってしまった。  きみといる夜も、ただ一人でいる夜も、八日目の月はやはり左側だけが欠けていて、憎らしい。俺はその左側の空白を埋められぬまま、のうのうと生きてやが

    • 不安という機能、猿人のアイデンティティクライシス、信仰と芸術表現の起源。

       以下、親愛なるI氏と話した内容の完全なメモであるが、読者のキミたちにも何かしらの考える契機となることを願って、少しだけキーボードを叩くこととする。  表現への衝動の根源、ひいてはそれへの焦燥について。  俺たちはなぜこんなに焦っているのか。早く何かを創出し、何者かになろうとして焦っているのか。毎時何かに追われながらも、それをこなせない己の弱さと怠惰さに幻滅し、憤怒し、失望しているのか。  それは一つは、自由意志というものに対する揺らぎに他ならないだろう。  年を重ね、ひ

      • 世界のかたちと、きみと暮らした半年について。

        「村雨のごと俺を抱きしあの熱 点のごとくにとほくなりしも」  あ、また、あの人のことを歌にしてる。  なんて、いつも思うよ。自分で作った短歌や小説には、たまに、あの人がうっすらと感じられて、そのことにひとたび気がつくと、まるで冬のセーターに絡んだ細く長い髪の毛みたいに、無性に気になってしまう。  まだ、忘れられない、とかそんなんじゃなくって、なぜか、いる。そのつもりがなくても、心のどこかにいる、のだ、きっと。わかんないよ。わかんないんだ、本当に。美しいわけでも、特別なわけで

        • 日陰のプラタナス、あるいはタイで事故って入院し、顔を38針縫って全身麻酔した日本人

           俺は転勤族の生まれで、昔から引っ越しが多かった。  あのとき「どうしてもここがいい!」と駄々を捏ねていなければ、あのとき「もう一軒だけ見てみようよ」と言っていなければ、あのとき「ここにコンビニあるじゃん」と見つけていなければ、あの家には住まなかっただろう、と小さな頃からよく考えた。  家が変わっていれば学区も間違いなく変わっていて、だから、今いる周りの友達は違ったはずだった。たぶん歌人や作家などを目指すこともなかっただろう。  そう思うたび、何度かゾッとした。俺は自分のこと

        somewhere far away

        • 不安という機能、猿人のアイデンティティクライシス、信仰と芸術表現の起源。

        • 世界のかたちと、きみと暮らした半年について。

        • 日陰のプラタナス、あるいはタイで事故って入院し、顔を38針縫って全身麻酔した日本人

          ユーラシア大陸を走る食物アレルギー人間のエッセイ、否もう少し散文、よりももっと雑談。

           赤土の砂埃が道の果てまで舞っている。風を切る。アクセルをひねる。130キロで身体が前のめりに繰りでてゆく。  路面は整備されていなく、ツルツルのアスファルトの上を赤土が薄く覆っている。前を走るトヨタのハイラックスが砂粒を舞い上げるたび、130キロの飛礫が顔面に降りかかる。生憎、俺のヘルメットはクラッシックタイプだ。顔が痛い。  ただ砂と排気ガスだけの舞う田舎道を、俺はわざわざ自ら望んで来ている。ただ何十時間も、ひとり広大な大陸を、それは最早、迷走に近いのかもしれない。  

          ユーラシア大陸を走る食物アレルギー人間のエッセイ、否もう少し散文、よりももっと雑談。

          自由意志などの無きことを

           小学生くらいの幼い頃、起きたとき、自分は昨日まで自分だったのか疑問に思うことが幾度かあった。  俺は、かぱぴーという人間にたった今なって、かぱぴーという人間が歩んできたであろう過去をたった今脳に埋め込まれたのではないか、と。  本当は自分はさっきまでは存在しなくて、今記憶を持ってここに誕生したのではないか、と。  それを『世界5秒前仮説』と呼ぶことを知ったのは高校生くらいになってからだったが、幼い頃の俺にとって、この悩みは常に付き纏うものであった。  今思えば、このときが自

          自由意志などの無きことを

          蝉は夏を知らない。

           無知であることは、幸福か。あるいは、好奇心とは善意で舗装された地獄の道か。  既知は不可逆的だし、だからこの問いは、あまりにも意味の無い問いかもしれないが、それでも俺はやはり考えたいのだ。「知らぬが仏、知るが煩悩」なんて言うなんて、たぶん江戸後期の人間たちも同じことを考えていたに違いない。やはり、我々の煩悶は既知からくるのだ。そうだ。そうだ。ん、どう思う?  さっき読み終えた本の中で、作中において不自由を象徴する女が、開けた窓に頭をもたれて寝ているシーンがあった。主人公は

          蝉は夏を知らない。

          ナニモノ⁉︎

           三十一文字で歌うのも、140字で綴るのも、それはそれでいいんだけれど、まだ若いし、溢れて留まらない心の澱は消えないし。 「いつかちゃんと生きたい」って思ったりもするけれど、雨はつめたいし、夜は暗い。  本音を言うと向いてないんだよね、正直だし。発達障害だし。才能ないし。けど、弱音吐いてる人間が一番つまんない人間だと思うから、まだ死なないでいる。自殺って弱音だから。そう思うことにしてるから。  定型とか、字数制限とかの無いここでは、なんでも言っていいことにしようと思う。そうい

          ナニモノ⁉︎