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日陰のプラタナス、あるいはタイで事故って入院し、顔を38針縫って全身麻酔した日本人

 俺は転勤族の生まれで、昔から引っ越しが多かった。
 あのとき「どうしてもここがいい!」と駄々を捏ねていなければ、あのとき「もう一軒だけ見てみようよ」と言っていなければ、あのとき「ここにコンビニあるじゃん」と見つけていなければ、あの家には住まなかっただろう、と小さな頃からよく考えた。
 家が変わっていれば学区も間違いなく変わっていて、だから、今いる周りの友達は違ったはずだった。たぶん歌人や作家などを目指すこともなかっただろう。
 そう思うたび、何度かゾッとした。俺は自分のことが好きなわけではないけれど、それでも、これまで選択肢の“最善”を選んで生きてきたはずだという意識はあった。というか、そうであってほしい。そうじゃないのって、悲しすぎるから。
 とにかく、だから俺は、人間など偶発的なものに過ぎないのだ、と幼い頃から身に染みていた。引っ越し一つ取ってもそうなのだ。人間には、遺伝子や家庭や社会などの環境的因子の与える影響があまりにも強すぎる、とずっと考えていた。

 それはしかし、強まることとなった。

 今回のタイ一週旅行の五日目、俺はアスファルトの舗装の崩れにバイクの前輪を取られ、頭部から地面に凄まじい勢いで突き刺さった。
 寸前から、記憶はなかった。次に起きたときには、俺の周りをタイ人が囲い、意識の薄いなか、救急車が到着する音が聞こえてきていた。
 生きていた。
 結果的に、顔面はボロボロの血だらけになって計約30針縫い、右目の眼窩は骨折して視神経に干渉、涙腺は破損して縫合が必要となり医師二人がかりの全身麻酔の大手術となった。
 脳は正常だった。言語能力に影響が出なかったこと(今のところ)が何よりの救いだった。ヘルメットには大量の血がこべり付き、右側の耳のあたりは大きく破損していた。
 最初、俺は藪医者に通され速攻拒否し、大きなプリンススワンナプーム病院(Princ hospital Suvarnabhumi)へと再び搬送されることとなった。最初に搬送されたバンパコーン病院は、何の相談もなく、マスクもせず、薄暗いなかで額と唇の上を縫われ始めるところだった。危なかった。麻酔だけ打たれた。俺の朦朧とする意識が、傷の深化と右目失明を食い止めた。あそこだけは許さない。

 偶然、舗装が崩れていたから。偶然、右側車線を走っていたから。偶然、前をハイエースが走っていて路面状況が見えなかったから。偶然、渋滞のために行き先をより近くのBangsaen beach に変更していたから。
 偶然、車通りの多いところで転倒したから。偶然、俺がレンタルではなく日本から自分のヘルメットを持ってきていたから。偶然、善良で優しいタイ人が見ていて、救急車を呼んでくれたから。偶然、大きい病院へと移送を強く依頼したから。偶然、当たりどころがよかったから。

 良くも悪くも、偶然が重なっていま生きている。このことは間違いなかった。
 本当に偶々の噛み合わせだった。ねえ、出会う人や自分だけじゃないよ。生や死だって、結局は偶然に過ぎないんだ。今生きているのだって、あの子が死んだのだって。すべては偶発的で、あまつさえ、環境因子的だ。キミも、毎日道で通り魔に遭わないことを感謝するがいいよ。
 いや、もはや、俺の存在自体も、先祖の婚姻の気分などで変わっていたかもしれない。人類の遠い先祖がサバナで偶然に出くわしていなければ、そもそもないものだったかもしれない。いや、きっとそうだ。そうに違いない。
 俺は、身に降り注いだ圧倒的実感において、かなり明示的に、そのことを意識せざるを得なくなった。結局すべては、環境因子なのだ。
 こうした、自分というものは意志ではなく環境によるものだという思想を、小さな政府や大きな政府といった概念に喩えて、『小さな自分』主義といいたい。自分が意思を持って働きかけて影響できるものは、ないのだと。それさえ全ては環境因子が決めるのだと。
 確かにこれは一見、実存主義と社会構造主義の対立論の車輪の再発明、というより廉価版に見えるかもしれないが、少し違う。
 俺がしたいのは、あくまでももっと、近視眼的な議論なのだ。生活に根差していない作品は決して芸術とはならないように、もっと実感と具体性のある主張が大事だと思うのだ。
 もちろん、「その実感も、環境因子が決めてんじゃね?」と思うかもしれない。だが、俺が主張したいのは、そういうことではない。
 なぜなら俺らは、自由意志がある“フリ”をすることが大事だと思うからだ。そうでなければ、生活はあまりにも寂しい。フーコーの言ってることは正論に他ならないけれど、でも、それを真っ当に信じて生きていくなんて、ちょっと、寂しいよ。あまりにも。小さな自分主義が正しくとも、でも、俺はそれをまだ強く実感するのが怖い。
 だから俺は、一芸大生として、もっと生活に根差した視点で、このことは議論されるべきだと言ってみたいのだ。

 プリンススワンナプーム病院の看護師は、だいたい英語が通じなかった。Please change my face cover などと中学一年生でも分かるような英語にして言って、なんとか顔中のガーゼを変えてもらう始末だった。彼らは仕事は丁寧だった。お喋りは多いが、皆おしなべて勤勉で優秀だった。何より、分からないなりに俺の言葉の意図をちゃんと汲み取ろうと、Google翻訳を片手に熱心なのだ。
 そんなとき、丁寧に優しく処置をされながら「このガーゼが全部取れたら、俺はまたタイに来たい。タイは人が優しくて良い国だ。今回の事故と入院でよりタイが好きになったよ。タイ一周の未練を次回果たしたい。」なんて思って、ふと彼らに伝えたくなる。
 でももちろん、それを彼らに伝える術などない。そんな俺の彼らへの感謝の気持ちは、未来永劫伝わることはないのだ。俺はすこし寂しくなりながら、ただ「Thank you」と馬鹿みたいに連呼する。それしかできない。なんて人間は寂しい生き物なんだろうか。
 俺はすこし似たことを思い出した。十八歳から二十歳まで、二十歳から二十二歳までと恋愛していたときのことだ。ふたつの素敵な恋心とすこしの煩悶があった。そして幾度も、自分の想いや心のうちが伝わってないな、と思うことがあった。生活や価値観は擦り合わせられても、思想や生への読解は擦り合わせられないんだと思った。
 でも、それは仕方のないことだ。人は相手の心の内側までは覗けない。言葉として出てくる表層の部分でしかそれは可視化されないし、そこから相手の心理を推察するのも難しい。そもそも自分でも自分がわからないことが多いのに、他人に何がわかるであろうか。
 でも、やっぱり俺は、それは仕方ない、とは言い切れずにいた。だって、その営みを完全に諦めて仕舞えば、人との繋がりは完全に営利的なものになってしまうから。相手を知ろうとすることをやめてしまった会話に、何の意味があろうか。
 俺らは、分かり合えないながらも分かり合おうとすることが必要だし、何より“人は分かり合える”という妄想、虚言、偶像を信奉して生きていくことが大切だと思って生きてきたのだ。そうして人類史は紡がれてきた。嘘だってわかっちゃいる。でも、それでも、信じれば本当だって、誰かが言ってたから。それでも寄り添える何かはきっとどこかにあるはずだから。
 けれど、もう、確として伝わらないこともあるのを知った。確かに今回は、ただ言語としての壁なのかもしれないが、言語以外にだって多くの障壁はあるだろう。脳の構造の違い、生育の地域の違い、得てきた経験則の違い。環境因子の違い。
 たとえ翻訳出版されたって、学校のない地域の子供達に学生恋愛の物語は伝わらない。
 俺たちはそうしたものと、どう割り切れば良いのだろうか。
 俺は、本当は看護師の彼らに、なんとかして、心からの感謝を伝えなければならなかったんだろうか? 俺はただ、諦めて仕舞ったのだろうか?
 たしかに、これはもう、諦めるべきなのかもしれない。小さな自分にできることは限られているのだから。自由意志などないのだから。平行に並べられたものは平行を保ったまま、この先永劫に交わることがないままでいいのかもしれない。
 けれど、やっぱり俺は、寂しい、と思う。
 これは別に、善い、悪い、正しい、間違い、ではなくて、ただ寂しいのだ。
 だから俺は、道を違えてしまう。あるべき平行な線を横たえて、一点の交点のためだけに。そして、離れて、もう二度と会えないあの人よ。ねえでも、それも寂しいよ。それじゃあ、また、俺は線を横たえるよ。
 俺はずっと、そうしてジグザグと湾曲して育っていっているのかもしれない。ずっと平行なままのアナタと、何度も交点を作るために。それはたとえ自由意志ではないとしても、そう信じて。日陰に育った幹の細く葉の色の薄いプラタナスみたいに。耐陰性もないのに、くねくねとした頼りない幹から無理やり枝先を伸ばしてゆく。
 ねえ、でも、それだって一つの木じゃないか。認めてほしいんだ、それも、木だって。一つの意志だって。寂しいし、怖いから。わかり合えないことも、もう会えないことも、怖いから。
 いいよ、額に何針縫ったって、顔の骨何本折れたって、でも、もう少しだけ、俺らわかり合えるフリをしていようよ?

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