不安という機能、猿人のアイデンティティクライシス、信仰と芸術表現の起源。

 以下、親愛なるI氏と話した内容の完全なメモであるが、読者のキミたちにも何かしらの考える契機となることを願って、少しだけキーボードを叩くこととする。

 表現への衝動の根源、ひいてはそれへの焦燥について。
 俺たちはなぜこんなに焦っているのか。早く何かを創出し、何者かになろうとして焦っているのか。毎時何かに追われながらも、それをこなせない己の弱さと怠惰さに幻滅し、憤怒し、失望しているのか。

 それは一つは、自由意志というものに対する揺らぎに他ならないだろう。
 年を重ね、ひとつひとつと経験が増えるごとに、幼い頃には確固たるものとして存在していた『自分の意志』が取り除かれてゆくことは、皆一様に、学校や社会や恋愛を通して経験していくものであろう。
 あらゆるものは偶発的で、環境要因が全てを左右している。俺たちが「こうしたい!」と思うのも、それは過去に自分が偶発的に得てきた経験則に基づくもので、なにも自由意志などではない。
 とまあ、このことは前々回に書いたことだが、俺はタイでほとんど死にかけて、そのことをさらに深く痛感したし、それへの打開は極めて困難であることを考えた。また、それでも抗いたい、という旨を書いた。詳しくは「日陰のプラタナス〜を参照してほしい。」

 俺たちは、究極的に言えば、原子から成り立つただの物質に他ならない。たしかに量子力学によってラプラスの悪魔の仮説は否定されたけれど、それはミクロの世界の話だ。大局的に見て、俺たちに自由意志が元来の機能として備わっている確率は極めて低いように思うし、皆そのことは実感も伴うのではないだろうか。
 あくまでこれは、浅学非才な俺でも考えつくアイデアだ。
 ということは当然、大層な上水道や建築を生み出した古代の人類も、こうした疑問を抱いていたに違いない。
 彼らはどうやって、自分の自由意志がないことを克服したのだろうか、と考えるとき、そこに一つの仮説が存在する。それは、生への意味づけである。

 ひとつは、信仰である。神という絶対的な架空を想像することにより、自分の生の意味を明示的にしようとしたのである。自由意志などなくてもあっても、自分の生には歴とした意味があり、代替可能な原子配列によるものではない。そういう極めてプリミティブな原理で、宗教というのは成り立ったのではないだろうか。
 また、芸術表現もその役割を担ったのではないか、と思う。自分を表現し、自分は自分にしか生み出せない何かがあるとここに明示的に証明すること。それによって、自分は自由意志を持って描いているのだと自分で自分を騙ることができる。このために、表現者は焦っている。自分を意味のある生として定義づけていたいから。
 でも、もちろん、それらは対症療法だ。いまだ人類はこの感情に明確な処方を打ち立てられずにいる。

 では、俺たちは、なぜそうした自由意志がないことや生の意味を見出せないことに不安を感じるのであろうか。これまでの歴史上で、これにどれくらいの人々が狂ってきたのだろう。
 これに関しては、まだ納得できるような明確な答えは出せていない。ので、まだ思考中だ。これが本noteがメモである所以である。

 しかし、もし一つ、このことを別の視点で考えるとするなら、それは進化史上、必要だったからだと言えるのではないだろうか。
 俺たちに『不安』という感情が存在するのは、それが間違いなく生存に有利だからだ。そうでなければ残らないはずだ。ダーウィン先生も天で大きくうなづいている。
 不安という感情はそもそも、自然淘汰のなかで必要とされつづけてきた『機能』であるのだ。これによって人類は団結し、文明を発達させ、環境に適応してきたことは容易に想像がつく。猿人だってアイデンティティクライシスを起こしていたのだ。だから今だって俺たちにそれは受け継がれている。アイデンティティが確立された猿人よりも、そうでない猿人の方が生存に有利だった、ただそれだけのことだ。(しかしまあ、これも極めて環境因子的だな……笑)

 しかしまあ、進化生物学的なアプローチでこのことを説明はできても、なぜ、今俺たちは焦っているのか、そのことは未解明である。
 それでもやはり、自由意志が存在しない、と考えることは不安なのだ。そして俺はずっとこれに、ただ胸を焦がされ続けている。
 焦っている。そのことは悪いことではない。俺はもっともっと努力しなければならないし、まだまだ足りていない。そのためにはもちろん焦燥は必要ではあろう。
 けれども俺は、この焦りの原因を、この不安の根源を、もっと知りたいと思う。

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