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里見弴と志賀直哉、めっちゃざっくり


とりあえず二人の関係の概要だけ知りたい! というかた向けです




志賀直哉(しが なおや)

明治16年2月20日~昭和46年10月21日(没年88歳)

小説家。
大正時代に人気を博した「白樺」の中心的メンバーとして文壇に登場。
強靭な自我と、ぎりぎりに張り詰めた神経の瀬戸際をまざまざと描き出せる筆の持ち主として注目された。
のちに「白樺」的な理想主義からは距離を置き、東洋的な調和を描いた心境小説の完成者として文壇で尊敬を集める。「小説の神様」と呼ばれ、後続の小説家に大きな影響を与えた。
代表作として「暗夜行路」など。

本人は長身のイケメン運動神経も抜群
学習院在学時は成績も悪くはなかった。ただし、我が強すぎるというか、授業中の教室を勝手に出ていくなどあくまで自分の道をつらぬく性格を問題視されて2回留年している。

潔癖症なところがあり、短気で知られた。志賀の弟子のひとりは、知人から「志賀先生って怖いんでしょう」と聞かれる……と書いている。
しかし同時に人の面倒見がよくカリスマ的なところがあったようで、「志賀詣で」と呼ばれるほど多くの文筆家が志賀家を出入りした。

実家は麻布に豪邸をかまえていた超お金持ちで、志賀も数年のあいだ仕事しなくても普通に生活でき、さらに土地取引もできたほど余裕がある。晩年は松濤の一戸建てに住んでいた。漫画のキャラか?


犬好きとしても知られる。
行方不明になっていた愛犬を見つけるや、
乗っていた路線バスをとめさせて猛然と飛び降りて追いかけた話は有名



里見弴(さとみ とん)

明治21年7月14日 〜 昭和58年1月21日(没年94歳)


小説家。
長兄は小説家の有島武郎、次兄は画家の有島生馬(里見弴はペンネーム)。
兄弟で「白樺」の創立に参加、「有島芸術三兄弟」として知られた。

弴はのちに「白樺」の理想主義と距離を置き、久米正雄らと雑誌「人間」を創刊するなどした。また泉鏡花を師匠筋として付き合うようになる。

中流階級から下町までさまざまな年代・性別・職業の人々をあざやかに活写し、心理の細かいひだに分け入る描写を得意とした。その技巧の冴えで「小説の名人」「小説家の小さん」などと呼ばれた。
戦前は、年の近い芥川龍之介と並び称されるほどの人気だった。

以前は美少年、今は美しい人」(小山内薫)
きれいな人だったな、色気のある」(宇野千代)
整った美貌」(文壇太平記)
小がらな色の白い人」(久保田万太郎)

……などなど、残っている評を見てもわかるとおり、イケメン、粋人として名をはせた。

身長は153センチ。当時としてもずば抜けて小柄だったが、知人から「ぶかっこうには見えない」と評されているから、坊ちゃんらしいあか抜けた雰囲気があったのだろう。明るい気性勝ち気さ気遣いの細やかさで、とにかく交友関係が広い。

志賀がカリスマ性なら、こちらはもっと親しみの持てるような、アイドル性といったようなところだろうか。
そのうえ料理や裁縫、片付けものなどの家事も面倒がらないたちだった。雇ったばあやが料理をできないとわかると、しばらく自分で台所に立って一緒に作って教えたりしているほどで、女性からもずいぶんとモテたらしい。家庭を持ちながらも、恋多き男だった。

実家は超金持ちで、”日本初の高級住宅街”、千代田区番町のバカでかい屋敷で育った。子どもたちから3人も芸術家を輩出したところに、その余裕ぶりが感じられる。だいぶ花柳界で散財したようだが、晩年まで生活が落ち着きこそすれ貧窮した様子はない。
こちらもだいぶ漫画のようなキャラ立ちっぷりである。

代表作として「多情仏心」「安城家の兄弟」「かね」などがある。


手前が弴、奥が映画監督の小津安二郎。
今では小津との交友のほうが知られているかもしれない



志賀直哉と里見弴


このふたり、「絶縁」で有名である。

「白樺」の創立メンバーは学習院の学生たちだったので、その付き合いは長い。
そのなかでも、志賀は有島生馬と同級生で親友だったため、弴のことも幼いころから知っていた。当時、弴は数えで7歳。今で言うと小学校1年前後だ。

二人の関係は年齢とともに変化していった。
「兄の親友」と「親友の弟」。そこから「兄と弟」に、やがて対等な親友同士へ。

そんな二人の関係は、研究者たちからしばしば「精神的同性愛」などと評されている。戦前、ふたりが50代前後のころのことだが、雑誌で「同性愛的」と書かれたこともある。

詳細は弴の『君と私と』あるいは『君と私』などの一連の作品に詳しい。

志賀直哉の作品としては、次のものがある。
・正誤
・廿代一面
・暗夜行路草稿


一応、私のこちらの記事でも触れているので、ご興味がおありでしたらどうぞ。

・短いまとめ ↓

・長いまとめ ↓

しかし、それほどまでに近い関係が、成長とともに弴には苦痛になってくる。
志賀の「文学」を追ってきた弴は、やがて自らの「文学」を求めるようになってゆく。当然の望みだろう。しかし志賀の強すぎる束縛をほどかなければ、志賀からも、志賀の文学からも自由になれない。

弴はその葛藤を作品にしてゆく。
志賀は激怒する。

こうして、数年にわたる喧嘩と復縁が繰り返されたあげく、大正5年、ついに決定的な対立に至った。

喧嘩のあげく、弴が没交渉宣言
その一か月後、志賀が絶縁状を送り付けたのだ。

こちらにもう少し詳しく書いています↓

その後、大正12年に二人は復縁し、志賀の没するまでの約50年にわたって、ちょくちょく喧嘩、仲直りを繰り返しながら、親友であり続けた。弴は志賀の臨終の席にも駆けつけ、号泣している。また、志賀の葬儀委員長は弴が務めた。

晩年の志賀は、「若いころのことをよく思い出すようになった。君がいちばんよく出てくる」と弴に話していたと言う。
弴もまた、晩年、「ゆめともうつつともつかず、亡くなった人たちが会いに来る。志賀がいちばん来るかな」と語った。

時とともに里見弴の名が忘れられ、ちかごろでは
何だか知らないが志賀とけんかした人
志賀のお稚児さんだった人
てゆうか誰それ?
というようなイメージが主になった。

しかしそこには、真剣に向かい合ったからこその、魂のぶつかり合いがあったのである。


左から里見弴、志賀直哉
『唇さむし 文学と芸について 里見弴対談集』かまくら春秋社 (1983) 口絵より


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