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ミステリー 里見弴の我孫子の土地の謎を解け! 1


大きく出てしまいましたが、ただのオタクによるちょっとした報告なので、軽く読み流してやっていただけると幸いです


なお、この記事をわざわざひらく方の多くは、おそらくすでに里見弴や志賀直哉についてご存知だと思うのですが、「たまたま紛れ込んだのでよくわからん」というかた向けに、以下の記事をご用意しました。

これさえ読めば大方わかる!(はず)
3千字弱くらいなので、すぐ読めます。


未知との出会い


あれは約6か月前。2023年8月のことでありました。
Twitterでたまたま、こちらのツイートを拝見したのです。
引用させていただきますね。


この序文は未読だな。
一読してそう思い、情報を得ようと読み直します。

話題になっているのは『破れ暦』という本
早世した戯曲家、木川恵二郎の遺稿集のようです。
このお名前、ちょっと憶えておいてくださいね!

文中の「御親父」は俳人、岡野知十
「金色夜叉」の尾崎紅葉らと同じ俳句結社で活動したりしておられた方です。木川恵二郎さんは、この方の次男でいらしたよう。
木川さんが里見弴に私淑していた縁で、弴が序文を寄せたということのようです。

この文は里見弴全集には収録されていません。
そこでさっそく、地方者の味方、国立国会図書館デジタル!(ドラえもんの声)
このサイトのおかげで地方人はどれだけ助かっていることか……。心のなかで合掌しながら検索してみると、ありますあります『破れ暦』。
嬉々としてクリックして読み進めるうちに、私は思わず目を疑うことになりました

なぜか。

問題のくだりをちょっと貼り付けてみますね。
どうでしょうか、どこにそれだけ驚いたか、おわかりになるでしょうか。


国立国会図書館デジタルコレクションより、『破れ暦』序文一部
https://dl.ndl.go.jp/ja/


驚きの理由。
その答えを書くためには、先に、あることを説明しなくてはなりません。


里見弴、それほど我孫子に引っ越したくなかったのでは説


里見弴と志賀直哉の絶縁を調べるうちに、私はある疑惑を持つようになりました。


里見弴は、我孫子への転居は「したくない」……というほどではなくとも、「積極的にしたいわけではなかった」のではないか。
そしてこの、望まない転居こそが、志賀と弴の7年にわたる絶縁の遠因になったのではないか。
それが「里見弴、それほど我孫子に引っ越したくなかったのでは説」です。


我孫子市民の皆さまのために付け加えておくと、「弴は我孫子という土地が嫌だったのではないか」という意味ではありません
当時の状況から来る不安のようなものがあったのではないか、ということです。


志賀と弴の絶縁は『善心悪心』が原因だと、一般的に考えられています。
弴の「善心悪心」を読んで激怒した志賀が、弴に絶縁状をたたきつけたのだ、と。

ですが、いったい志賀は「善心悪心」のどこにそれほど怒ったのか?
これについての研究はほとんどされていません。ちょこちょこと説はあるものの、謎のままに残されています。

ところで、我孫子転居の過程を見てゆくと、一般に知られているのとはまた違う側面が見えてきます。

絶縁直前、里見弴は我孫子へ引っ越す準備をしていました。
この準備は遅々として進みません。
仕事が忙しかった時期とは言え、それについて触れた手紙も、生まれて初めて自宅を建てるにしては冷めた調子です。

もともと、弴が転居を考えていたのは事実だったようです。
我孫子とは関係なく、その前年に引っ越した家が気に入っていなかったためでした。

新婚の妻と所帯を持ったはいいものの、とりあえずということで入った借家がずいぶんと安普請で狭かったようなのです。
そのうえ弴が生涯師匠として尊敬し続けた作家、泉鏡花――縁起をかつぐことで有名でしたが――からは「家相が最悪です、この家はいけませんよ」と忠告されたそうですし、友人からも「妙な家」と評されています。

我孫子への転居が立ち消えになったあとで別の家に移っているところを見ても、引っ越したかったのは間違いないでしょう。

しかしそれにしては、動きが遅い。

家の設計図を依頼したり、宅地造成の相談をしたりと動いてはいたようですが、2か月経ってやっと測量にとりかかり、3か月経ってできあがった測量図を我孫子に持ってきたくらいのものだったようなのです。

志賀にせよ、のちに我孫子へ転居する白樺派の武者小路実篤にせよ、土地を手に入れてから3、4か月で入居に至っています。比較するとやはりだいぶゆっくりだと言えるのではないでしょうか。

その間、打ち合わせのために我孫子に行く約束をしては、何度もすっぽかしています。
あげくの果てにすっぽかしが原因で志賀とけんかをし、怒りに任せて、志賀にこんな手紙を送りました。

これは我孫子に土地を買う時分にも考えたことだが

(その時分には僕自身がそう度々
君を不快にしていようとは気がつかなかったから)

僕はともかくとして おまさが
君なり君の奥さんなりに対して
不快を与えるようなことが出来はしないだろうか。
(略)
僕なりおまさなりが 度々
君たちや柳君夫婦やを不快にすることでもあると大変困る。

里見弴 大正5年5月20日付 志賀宛書簡 志賀直哉全集


おまささんというのは、弴の新婚の夫人です。
大阪下町の芸妓だったおまささんは、大阪人らしく歯に衣着せぬタイプだったようで、のちに「率直夫人」と仇名されたりもしています。


それに対して、志賀や柳は華族学校、学習院の出身
志賀夫人康子さんも華族で、学習院の女子部に通っていたお嬢様です
さらに柳夫人兼子さんも下町生まれとは言え裕福な家の娘さんで、音楽学校で学びドイツに留学した、著名な声楽家でした。
当時は、身分や教育による文化・教養の差は、今以上に大きかったでしょう。

自分たち夫婦は、そんな我孫子のノリに合わないのではないか。
だから、土地を買うときからすでに、我孫子転居に躊躇があった。
弴はそう言っているわけです。
弴もむしろ白樺の仲間たちと同じ立場ですが、そこはやはり妻の側に立つということでしょう。

と言うか、弴の中にはさまざまな懸念があり、例に挙げたのがノリの違いだったのではないかと思うのですが、これについては後述します。

弴の勢いはどんどん激していき、手紙の最後の方では、志賀とは付き合わないという没交渉宣言をかまします
志賀の絶縁状より一か月も前でした。
実質の絶縁は『善心悪心』より早く、このとき始まったと言えるでしょう。

ここまでの流れを見たとき、こう考えてしまうのです。

むしろ、ふたりの絶縁に大きな役割を果たしたのは、我孫子転居の方だったのではないか。
そもそも里見弴は我孫子に引っ越したかったのだろうか。
本当はためらっていたのではないか。
そのため我孫子転居は遅々として進まず、喧嘩が起こり、ついには没交渉、絶縁に至ったのではないか。
あくまで、「善心悪心」はそのしあげのようなもの(と、志賀には感じられた)だったのではないか、と。


もしそうだとすると、どうして弴は我孫子への転居がそれほどに嫌だったのか、という問題が浮上してきます。


なお、大正5年の絶縁の事情がわからない方は、こちらの記事の「第3ラウンド…「善心悪心」(大正5年)」の項目をご参照いただけると、またわかりやすいと思います。




土地台帳を探せ!


ここで、我孫子転居をめぐる状況が問題になってくるわけです。
なかでも弴が転居するはずだった土地については、どうしても確認しておきたいところです。

でも……。
土地の番地がわからない……。

弴の土地の番地は、志賀や柳宗悦、武者小路実篤のようにはでかでかと公開されていないのです。実際に転居していないわけですから、しかたありません。

実は弴の土地については、我孫子の白樺文学館さんの調査があります。
また、webにあがっている論文で「白樺派と近代日本の住宅建築」には、地図がおさめられています。引用させていただきますね。

「白樺派と近代日本の住宅建築」P2より

このうち7が里見弴別荘用地跡となっています。
ここが弴の土地なのでしょうか?

ただ、どうも弴は2月に買った土地以外にも、家を借りようとしていたらしいのです。家の場所は「ネノカミ」。ちょうど7のあたりです。
白樺文学館さんの調査も、同じあたりを里見弴邸としておられます。
7は買った土地なのか、借りようとしていた家の土地なのか。
一応確認する必要があります。

そこで、我孫子の白樺文学館さんにお問い合わせしてみたのですが、どちらかはわからないというご回答でした。
いま考えると、ちがっていてもいいので7の番地をお訊ねし、土地台帳を取得すれば確認できたのですが……。
それについては思いつかず、そのまま数年が経過します。アホやん。

そこに、冒頭の「破れ暦」の序文があらわれたのです。


【つづく】



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