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体罰について

最近の世間の風潮としては、体罰というものは、とにかく理屈抜きでNGということになっている。

学校での教師から生徒に対する体罰、体育会系の部活動における指導者や先輩からの体罰、親から子供に対する体罰等々、いずれも不可である。

だが、しかしである。

体罰というものが世の中にずっと以前からあたかも存在しないかのように語られたり、仮にあったとしても、とても特殊で珍しい事例であるかのごとく語られるのを聞くと、ちょっと待てよと言いたくなる。

ぶっちゃけた話をすれば、わりと最近まで、あちこちで体罰は当たり前のように存在した。体育会系の部活動(特に強豪校)、オリンピックに出場するようなトップアスリートなども、今ならば絶対に「アウト」になりそうな猛烈なシゴキに耐え抜いた類の昔話を面白おかしく語るような場面が、少し前までならば珍しくなかった。ところが、ある時期からはそういう話をすること自体がタブー視されるようになったようである。コンプライアンス的に良くないことは、話題にするのも基本的にはNGであり、話題になるとすれば、ハラスメント事案として訴えられたり処罰されたりするようなケースに限定されるというのが、昨今のマスコミのスタンスなのであろうか。

大相撲の世界では、「無理偏にゲンコツ」と書いて「兄弟子」と読むとか、親方や兄弟子による荒稽古を「かわいがり」と称したりとか、心身鍛錬のためという大義名分に基づく体罰や暴力が最近まで普通に行なわれていたのは周知の事実であり、度を越したシゴキによる大怪我や死亡事故も発生している。

大学や高校の体育会系も似たようなものである。上級生は神さまで、下級生は奴隷以下みたいな極端な上下関係に基づく理不尽や不条理がまかりとおる事例をたくさん見聞きしている。強豪校と呼ばれるところほど、どうやらそうした傾向は強いようである。

学校の教師だって同様である。最近は体罰は一切NGであるがために教師は生徒からすっかり舐められ切っているようだが、僕なんかの小学生時代は、教師の体罰は当たり前に存在した。僕などは悪ガキだったので、教師に往復ビンタされたり、回し蹴りされたこともあった。ゲンコツで頭を叩かれるくらいは日常茶飯事でいちいち覚えてもいない。当時はそれで学校に苦情を言う親もいなかった。それくらいに当たり前であった。

こういう話を書くのは、決して体罰を正当化することを意図しているわけではないのだが、甲子園出場の常連校出身の元プロ野球選手とか、厳しい稽古で有名な相撲部屋出身の元横綱の現親方とかが、「体罰は絶対に許されませんよ」とか喋っているのを聞くと、「もっと正直に話をしようよ」と言いたくなってしまうのだ。彼らが、かつては体罰の被害者であり加害者でもあったことは、彼らの現在の地位や立場から明らかだからである。

自分の実体験を正直に語った上で、過去の反省に基づいて、体罰を否定するというのであれば、それはそれで素直で結構である。そうではなくて、自分の身の回りに体罰などはそもそも最初から存在しなかったかのような話をしてみたり、自分自身の体験はスルーして、単なる理想論とかタテマエ論として体罰反対論を論じられても、聞かされる側はシラケるばかりである。

体罰を正当化するつもりはないと先ほど書いた。しかしながら、体罰をすべて否定するかと訊かれると、実は僕のスタンスは限りなく微妙と言わざるを得ないのだ。「条件付きで容認する」とか、「必要悪」だとか言うと、今のご時世においては、それ自体が「アウト」になるのだろうか。

小学校の低学年の児童というのは、ある意味、野獣みたいなものである。小学校の教師がやっていることは、動物園の飼育員と大差はない。飴と鞭で野獣を躾けるのと、小さい子どもを躾けるのと本質的には同じであると思っている。もちろん怪我をするような体罰は論外であるにしても、言葉や理屈を理解できるようになる以前の子どもたちは、ある程度はカラダで覚えるしかないところは否定しない。

体育会とかアスリートの世界の体罰やシゴキというものを敢えて正当化するのであれば、1つの機能としては、所属する組織のメンバーとしての帰属意識や、命令に対する即座に服従する反射神経を叩き込むことにある。そのためにそれまで培った個性や経験を一旦徹底的に否定して、いわば鋳型にはめ込むように再教育する作業と言えなくもない。日本企業において、体育会出身者が評価されやすいのは、企業の新人教育でやっていることと親和性がきわめて高いからである。

つまり、まったくの白地の状態からスタートして、一定のレベルに短期間で達するようになるための効果的な基礎訓練の類は、世の中で体罰とかシゴキと呼ばれるものに限りなく近づくことになるし、それは仕方がないように思われる。軍隊の新兵教育(「ブートキャンプ」と呼ばれるようなプロセス)もまあよく似たようなものであるし、テレビドラマにもなった「教場」で描かれる警察学校なども同じようなものかなと思った。軍隊や警察の基礎教育などは、パワハラだとか言われたら、すべて該当しそうである。

それぞれの個性を重視するとか、誰もが「特別なオンリーワン」とか言われる昨今であるが、一定の基礎力も身についていないレベルの人間の個性を論じるのは噴飯ものであろう。基礎があることを前提として、その先の段階で身につけるべきものが個性である。で、基礎を効率的にカラダに叩き込む工程をシゴキと称するのであれば、それは必要なプロセスと考えて、ある程度は容認するのもやむを得ないという考え方も成り立つのではないか。

相撲部屋の話に戻るならば、中学校を卒業したくらいの「カラダの大きな子ども」の心身を鍛錬することは、サーカスのクマに芸を仕込むのとあまり大差がない作業であろう。精神的にもまだ未熟な新人弟子であるから、時と場合によっては暴力的な制裁が必要なこともあると思う。それらをすべてハラスメントと称して全否定していては、おそらく相撲部屋の運営は成立しない。

もちろん怪我をするような暴力は容認すべきではない。親方や女将さんは親も同然だと言われるが、親と同様に弟子の将来に全責任を負う覚悟があるかどうかである。CMではないが、「そこに愛はあるんか」ということになる。そういう覚悟があって、必要と判断した上での体罰であれば、傍からいちいち文句を言うべきではないと思う。

長年にわたって行なわれてきたこと、軍隊の新兵教育、相撲部屋での新人教育、企業の新人教育等々は、理不尽で暴力的に見えるとしても、何らかの合理的な理由や狙いがそこにあると考えるべきであろう。

そういうことを深く考えもせずに、表面的なところだけとらえて、ハラスメントだ暴力だ体罰だと全否定してみたり、そんなものは最初から存在しないかのように見て見ぬふりをするのは、どちらも見当違いであるし、誠実な態度とは言えない。

昨今は原理主義的とでも言うのか、タテマエ論や表面的で単純なモノ言いの方が受け容れられやすく、それらに対して異論を唱えたり、本音で違った意見を言おうとすると、問答無用でバッシングされる傾向がある。でも、そういう多様な意見を許容しない姿勢自体が暴力的であり、狭量であることは、少し冷静に考えてみれば、わかることだろうと思うのだが。











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