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「ふてほど」と「おっパン」について

1月スタートのドラマも、3月末でいずれも最終回を迎えた。前にも書いたように、1-3月クールの民放ドラマのうち、ちゃんと見たのは、前クールから引き続きの「相棒」を除くと、「不適切にもほどがある」、「おっさんのパンツがなんだっていいじゃないか!」、それと、「さよならマエストロ〜父と私のアパッシオナート〜」の3本だけであった。

「さよならマエストロ〜父と私のアパッシオナート〜」については、別の記事を書いたので、「不適切にもほどがある」(以下、「ふてほど」)、「おっさんのパンツがなんだっていいじゃないか!」(以下、「おっパン」)についても書いておきたい。

この2つのドラマであるが、コンプライアンス重視の昨今の世の風潮をテーマとしている点で共通する。ただし、テイストについてはかなり異なる。

「ふてほど」の主人公、小川市郎(阿部サダヲ)は、公立中学校の体育教師で野球部顧問。「地獄のオガワ」の異名を持つ超スパルタ教師。「おっパン」の主人公、沖田誠(原田泰造)は、事務機器リース会社の中間管理職。デリカシーを欠く言動のせいで、家族にも部下にも疎まれている。いずれも典型的な昭和生まれのオヤジであり、年齢が50代初めである点や、令和的な尺度ではコンプライアンス意識がかなり低めな人物であるという点が共通する。

「ふてほど」の小川市郎は、タイムマシンによって、昭和61年(86年)と、令和6年(24年)の間を行ったり来たりしながら、両方の時代を相対的な視点で見る機会を得ることで、急速にアップデートされていく。最終的に昭和に戻るが、当時としてはかなり意識高めの、かと言って過剰過ぎるわけでもない、ほどほどにバランスの取れた人物に進化を遂げている。

「おっパン」の沖田誠の方は、家庭や職場での自身の言動が引き金となって、いろいろと反発を受けるような経験を数多く積み重ねることになるのだが、周囲のメンバーは、家庭も職場も総じてクセがかなり強めであり、毎回、失敗を通じて、さまざまな気づきや学びを得て、こちらもアップデートを余儀なくされる。

どちらのドラマも、コテコテの昭和オヤジが急速にアップデートされていく点に関しては共通するのだが、「ふてほど」の方は、昭和も令和もどちらも極端過ぎる、ほどほどが望ましいというやや批判的な立場であるのに対して、「おっパン」は、令和の現代に対して総じて肯定的な視点である。今の若者たちの価値観を、多様性に対する寛容性という点で評価し、それを受け容れることで、頭の硬いオッサンである主人公自身の既成観念で凝り固まったモノサシをリセットしようとするスタンスで描かれている。

「ふてほど」の方は、その点、もう少し複雑である。たしかに、現代社会は、多様性に対する寛容性であったり、ジェンダーに対する意識という点では、昭和よりも評価できるものの、ハラスメントや不倫でのたった1回のしくじりで徹底的なバッシングを受けてしまったり、あるいはSNS等の匿名での執拗なまでの個人攻撃に晒されてしまうといった不寛容さも存在する点で、昭和とは別の意味での「息苦しさ」「面倒くささ」を抱えている点にも触れつつ、単なる「令和礼賛」「昭和批判」で終わらせてはいない。

どちらの視点を良いと考えるかは、これらのドラマを視聴した人それぞれであった良い。僕などは、「おっパン」は、やや綺麗ごとというか、昭和オヤジが急に物分かりよくなりすぎだろうと意地悪いとらえ方をしてしまう方だし、その点、「ふてほど」の方が、本音ベースとしては納得がいく。

もちろん、「やはり、昭和が良かった」と懐古趣味をゴリ押しするつもりはない。どうあがいたところで、本音丸出しの昭和には戻れない。かと言って、あちこちに埋設している地雷を踏まないように、いろいろと気を回さないとすぐに炎上・爆死してしまう令和も生きづらい。

そう言えば、リニア大反対の静岡県知事が、とうとう辞めることになりそうだというニュースが今日の夕方に耳にした。昨日の静岡県庁の新人向けの挨拶がマズかったらしい。以前にも舌禍事件を起こした御仁であるので、「またか」という感じである。あちこち敵が多いと、ちょっとした軽はずみな発言も命取りになるらしい。リニア建設が大幅に遅延して絶体絶命だったJR東海などは大喜びで祝杯をあげているかもしれない。

でも、これなども、「言葉の使い方が不適切で誤解を招きました。ごめんなさい」で済みそうな話であるところが、進退問題にまで発展するあたり、やはり現代社会は不寛容と言われても仕方がない。

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