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高校野球について

僕は、甲子園で開催される高校野球が大嫌いである。春の選抜大会も嫌いだが、夏の大会はもっと嫌いだ。何もしなくてもクソ暑い最中に、炎天下で野球の試合をやること自体、そもそも尋常とは言えない。朝日新聞も高野連も何を考えているのやら。一種の虐待ではないだろうかとさえ思う。

コロナ渦で、20年度は春夏ともに中止になった。この機会に、甲子園での高校野球大会そのものを見直すべきであった。しかしながら、21年度からは再び春夏ともに再開した。選手の健康面に配慮して、準決勝と決勝の間に休養日を設定したり、夏の大会では、5回裏終了時に「クーリング(給水)タイム」が10分間設けられたりとか、若干のマイナーな見直しはあったものの、大会運営に関する抜本的な改革は何も行なわれなかった。

僕がアンチ高校野球な主たる理由は、暑い最中に、いかにもカラダに悪そうなことをやっていることに対する不快感であることは、冒頭に書いたとおりであるが、それだけだと夏の大会の説明にはなっても、春の選抜大会の説明にはならない。

たぶん、最も気に入らないのは、周囲のオトナたちが悪びれもせずに、高校生をネタにして、寄ってたかってカネ儲けをやっていることであろう。しかも、カネ儲けであると、正々堂々と開き直ってるのであれば、まだ潔いのだが、たかだか高校生の野球の試合に、わけのわからない幻想あるいは美談的ストーリーを盛りに盛って、感動を押し売りしようとするイヤらしい姿勢に気持ち悪さを感じるのであろう。

今どきの高校生は純粋無垢ではない。隠れてタバコや酒をやっているような生徒も珍しくはないだろう。彼女の1人や2人はいるだろうし、隠れて不純異性交遊くらいやっていても何ら不思議ではないが、その点に関しては、並外れて健康な高校生男子たちなのだから仕方がない。

問題はそれ以外のところにもある。甲子園に出場するような強豪校だと、多くの場合、勉強なんかやっているヒマはないくらいに朝から晩まで練習漬けの毎日である。指導者や先輩によるパワハラやイジメ、体罰だって無縁ではない。もちろん、喫煙や飲酒、暴力事件等が表沙汰になれば、出場辞退等のペナルティを受けるが、それ以外の出場校が「真っ白」である保証はない。叩けば埃くらい出るものの、うまく立ち回って隠蔽している学校だって少なくないのではないだろうか。高野連や新聞社だって、それくらいのことはおおよそわかっているが、表沙汰にならない限りは、知らんぷりをしているに違いない。

コロナ渦、温暖化による酷暑等の影響もあり、大会の運営方法そのものの見直しを求める声が少なくないにもかかわらず、一向に本質的な改革が行なわれそうもないのは、春夏の高校野球によって利益を得ている多くのオトナたちが、自分たちの既得権益を死守したいからであろう。

高校野球で恩恵を被っているのは、スポンサーである新聞社(毎日と朝日)、そして高野連である。テレビで試合を放映している朝日新聞系列のテレビ局やNHKも含まれるかもしれない。プロ野球、大学野球、実業団野球等の関係者にとっては、「金の卵」を見つける絶好のチャンスである。

高野連(正式名称は、「公益財団法人日本高等学校野球連盟」)は、多くの高校スポーツが高体連(正式名称は、「公益財団法人全国高等学校体育連盟」)の管轄下にあるのに対し、高体連には加盟せず、他の高校スポーツと一線を画した独自路線を貫いている。他の競技とは一緒にされたくない理由があるからに決まっている。高校総体の会場で入場料を取られることはないが、高校野球の場合、甲子園はもちろん、地方大会だって入場料を取る。こうした入場料収入もあって、高野連は毎年安定した事業収入を計上しており、潤沢な正味財産(純資産)を保有しているという。つまり、春夏の大会は高野連にとって貴重な安定収入をもたらす「サイフ」みたいなものであり、高校野球の実態は、オトナたちの利権そのものなのだから、簡単にやめるわけにはいかないのだ。ちなみに、高野連の最高顧問は、政治家と毎日・朝日新聞のトップである。

今年の夏の大会は、実に103年ぶりに慶應高校が決勝に進出した。慶應高校は偏差値の高い難関校だし、慶應にはスポーツ推薦枠はないから、文字どおり「文武両道」で素晴らしいのだが、よく調べてみると、「スポーツ活動に文化活動も含めた推薦入試制度」はあるとのことである。ただし、中学校の内申点がある程度の水準以上であることが必須で、さらに作文と面接の試験があるので、まったくの野球バカにはちょっと厳しそうである。もっとも今回巷の話題になった元プロ野球選手である清原の息子に関しては、兄貴の長男ともども幼稚舎(小学校)からの内部進学だから、推薦入試は関係ない。

幼稚舎に関しては、究極の情実入試みたいなものだから、入試の難易度を論評しても仕方がない。とはいえ、公平を期すためにコメントしておくが、僕がいた銀行の同僚にも幼稚舎から大学までずっと慶應という人間が何人かいたが、ものすごく優秀な人も中にはいたし、その逆もまた然りである。

要するに、入試による選別など、あまりアテにはならないということであろう。特に小学校入学時点の幼児の資質など判別できるわけないのだ。


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