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「伝統的な家族制度」について

朝ドラ「虎に翼」は、日本最初の弁護士である三淵嘉子がモデルになっているという。

このドラマに描かれた当時、女性は弁護士にはなれないとか、弁護士にはなれても裁判官や検察官にはなれないとか、今では考えられないくらいに露骨な男女差別がまかり通っていた。ドラマ中でも、当時の民法では、妻は「無能力者」とされたり、働くにも夫の許可が必要で、妻が夫の許可を得て働いて得た財産や実家からの持参財産などは夫に管理されていることが話題として登場していた。

ずいぶんと前時代的な感じがするのだが、実は、今の日本の民法も、何度かの改正を経てはいるものの、明治時代に制定された民法と同じもので、このドラマの当時と同じものなのだ。

前にも、「正しい家族制度というものを国家が規定して、それ以外の選択肢を許容しないというのは、パターナリズムの典型である」という意味のことを書いたことがある。

「夫婦別姓問題」については、1898年に施行された民法で、妻が夫の氏(姓)を称することが明確化されて以降、すべての家族はその家の苗字(姓)を名乗ることが法的に義務化された。

それ以前の日本においては、女性が「姓・名」を自身で名乗る機会自体あまりなかったから、「どちらの姓を称するか」についての明確なルール自体が存在せず、西洋における当時の制度等を参考にしつつ、民法制定によってとりあえず決着を図ったというのが実態である。

昨今、「夫婦別姓問題」を議論すると、すぐに、「日本の伝統的家族制度」云々を盾にとって反対する人が少なからず存在する。保守系の議員などにも大勢いる。でも、先ほど書いたように、法的に定められたのは、たかだか100年余り前にすぎない。「伝統的」と大仰に構えるほどの歴史はない。

民法を制定する際に、当時の西欧諸国の事情を参考にしたわけであるが、現在の西欧諸国では、夫婦同姓を法的に規定している国はないという。一度、決めたことを愚直に守っているあたり、日本人らしいと言えば、そのとおりであるが、お手本だった西欧諸国も既に状況はかなり違っているにもかかわらず、日本だけが、いつまでも夫婦同姓に固執する合理的な理由などないと思うのだが、いかがなものか。

そもそも、家族制度自体、明治時代と現代とでは、我々国民の意識は様変わりしてしまっている。核家族化が進み、単身家庭も増え、地縁血縁に基づくコミュニティにおける緊密な連携とか包摂性といったものは失われつつある。時代が変わり、意識が変われば、法制度もそれに応じて見直しをするのは当然であろう。

「パターナリズム」の記事でも触れたが、家族制度なんてものは、お国や為政者に、「かくあるべき」と決めてもらうようなものだとは思わない。また、唯一絶対の「正解」があるわけでもなく、いろいろな選択肢があっても何ら差支えはない。

もしも、ホントに伝統性にこだわるのであれば、現在、大河ドラマ「光る君へ」に登場しているような、平安貴族の家族制度については、どのように説明をするのだろうか。1,000年以上も前の話であるから、明治時代の民法よりも、伝統性というか、歴史の古さに関しては、疑う余地がないくらいである。

平安時代の貴族社会においては、甲斐性さえあれば、妻や妾を何人も持っていたところで、何ら問題はなく、それが倫理的に問題視されることなどなかった。『源氏物語』の光源氏なども同様である。それどころか、あまり甲斐性がなさそうな、紫式部のお父さんの為時でさえ、ドラマの中で、妾のところに通うシーンがあった。

平安時代まで遡らなくても、昭和の頃であれば、政財界の名士とか、歌舞伎役者や映画俳優とか、経済力のある人たちの多くは、本妻以外に、妾や愛人の1人や2人くらい、いるのが当たり前だったし、世間もそのことであれこれ騒いだりしなかった。不倫をテーマにしたTVドラマがヒットしたのも、昭和の終わり頃であった。

繰り返しになるが、家族制度というものは、所詮は相対的なものである。時代の移ろいによって、人々の価値観も変わり、家族制度も変わる。それは仕方のないことである。それを、「伝統的」というキラーワードを振りかざして、特定のあり方しか許容しないという姿勢の方がオカシイし、非現実的であろう。

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