見出し画像

アウトプットの重要性について

本を読んだり、人の話を聞いたりして勉強をするのは、知識のインプットである。インプットだけやっていても、自分では勉強したつもりになるのだが、インプットだけだと、自分の知識のあやふやなところ、理解が曖昧なところに気づいていなかったりする。

読むことができる漢字のすべてを書くことはできないが、書くことができる漢字は読めるのと同じようなものか。あるいは、聴いて何となく意味を理解できる英語を喋れるとは限らないが、喋れる英語ならば聞けば理解できるのと似たようなものか。

いずれにせよ、インプットをしながら、折に触れてアウトプットをすることで、学んだ知識の定着化が促進されるのは間違いない。

先日、毎月1回のペースで参加している勉強会で、事例報告の順番が回ってきた。リアル参加者にリモート参加者を含めても総勢30人くらいの前で、1時間ほどレジメに基づき発表をして、残り30分ほどで質疑応答とか意見交換をするような流れであった。

それでもレジメを作成して、話をする内容を決めて、あれこれと準備をする過程で、自分の知識の欠落している部分に気づくことがあった。普段、仕事をしていて、当然に理解していると思っていたことであっても、人に説明をするとなると、正確な情報に裏づけられた、それでいて部外者にもわかるような話をする必要がある。なかなか難しい。

事前準備、当日の説明、質疑応答や意見交換のいずれもが刺激的であり、いろいろと気づかされたり、学んだりする機会を得ることとなった。

大学時代のゼミでの発表を思い出した。1年間で1人2回くらいのペースで輪番でレポートをさせられた。いま思えば大したことはない。講読している英語で書かれた基礎文献の割り当て部分、だいたい1章くらい、ページ数で30ページかそこらの内容を要約してレジメにまとめて、報告するだけである。それでも報告内容があやふやだったりすると、教授から容赦なく突っ込まれたり、あまりに発表内容が拙いと雷が落ちたりする。報告の当番が回ってくると、ふだん不勉強な学生としては相応に緊張したものである。

人前で説明をするとか、読んでわかるような文章にまとめるというのは、知識のアウトプットである。アウトプットを意識することで、インプットにより真剣味が増すし、自分の知識の欠落に気づく機会が得られる。

福澤諭吉とか大村益次郎が学んだ幕末の適塾では、「輪講制」による学習が基本であったという。以下は、司馬遼太郎の『花神』からの引用である。

「輪講というのが、教える制度の中心になっている。これはどの塾でもそうだが、塾生をその学力によって八学級にわけてしまってあるのが適塾の特徴である。その学級ごとに輪講をする。その輪講は月に六回ある。
輪講とは要するに塾生自身が蘭書の講義をすることで、トップにそれをやる者をくじできめる。首席者という。それが蘭書の一くだりを和訳すると、つぎの順番の者に質問をし、それに答えられなければ「敗者」になって黒点がつく。うまく答えられた者は「勝者」で、白点である。それらの審判をくだす者が、塾頭もしくは塾頭次席の「塾監」である。そのようにして一カ月たつと、一カ月間の点数をしらべ、白点の多い者によい場所の畳をあたえ、わるい者はその逆になる。一般に三カ月つづいて白の勝ち越しをした者には上級の学級に昇格させる。」

他の塾生たちから突っ込まれても答えられるように、アウトプットを意識した勉強をすることで、各自が黙々と勉強するよりも大いに成果が上がったのであろう。

渡部昇一の『続 知的生活の方法』の中で、論文の書き方について説明している件がある。ともかく書きはじめてみることが大切だという。いくら勉強して調べたところで論文にはならない。書きはじめてみることで、新しく調べたり、チェックしなければならないことが明らかになる。

これもアウトプットを意識することでインプットの質が向上することを示している。

noteにこうやって文章を書くのも、一種のアウトプットである。見聞きして得た情報を自分なりに整理して書き記す過程で、知識が定着化し、欠落した情報を追加で収集し、自分なりに考えをまとめることができる。

結果として誰かの役に立っているかどうかは知らないが、自分の役には立っているのは間違いない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?