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いつかの言葉 【辰巳芳子さん】

「いつかは自分のためだけに作らなければならない時が来るんですよ。そのときにね、自分の命というものをね、どのように受け止めていたかっていうことをね、非常に、毎日の台所仕事が問うのです。」

(辰巳芳子、テレビの取材に答えて)

辰巳芳子さんは鎌倉でスープの会を主宰している料理人の方です。有名なのでご存じの方も多いかも知れません。

先の言葉は、辰巳芳子さんがテレビ番組に出演した際、インタビュアーの方に「ご自分の食事を作るときにメンドくさいなぁっていう日はないですか?」という質問をされたときに、「そんな日もあるけれど…」と一言置いた上で答えた言葉です。

日課の仕事、とくに家事のような毎日の積み重ね仕事というのは、どこまでやってもこれで終わりということが無いので、いったん先のことを考え出すと途方もないことであるように思えてきます。

外出先から疲れて帰ってきたときに、「ご飯を作らなくちゃ」と自分を奮い立たせるのもなかなか気力の要ることです。

それでも食べてくれる家族がいれば、まだ「頑張らなくちゃ」と思って台所に立てますが、でも自分独りだけだったらどうでしょう? きっと適当に済ませてしまうかも知れません。

私の知り合いで、連れ合いを亡くしてから「三年台所に立てなかった」という方がいました。そんな気になれないと過ごしているうちに三年も経ってしまったのです。その方は三年経って「このままじゃいけない」と奮い立ち、ようやく台所に立てるようになったそうです。

人間、誰かのためにと思えば力が湧いてくることもありますが、自分だけであればなおざりに済ませてしまうこともあるでしょう。

ですが、そんなときに、自分が自分自身の命をどのように扱っているのか、その姿勢が問われるのだと辰巳さんは言います。

子どもも巣立ち、食卓を共にする家族がいなくなって、自分がいつか独りになったときに、それでもなお自分のためだけに台所に立ってきちんと料理と向き合うということ。

あまり空想したこともありませんでしたが、それは想像する以上に「私」という人間の生き様を問われる、そんなことであるのやも知れません。

ずっと独りである場合と、独りであることをやめ家族を作り、再び独りに戻った場合と、それぞれまた独りということに対する心持ちはずいぶん変わってくるかと思いますが、「独り台所に立つ」という身振りは、シンプルな日課だからこそ、その生き様が現われることでもあるのでしょう。

それが自然とできるということは、おそらく思っている以上にずっと彊い(つよい)ことであり、そしてその彊さを支える力はきっと、日々の小さな出来事の積み重ねによって育ってくるものなのでしょう。

それは誰のためでもありません。誰の知ることでもありません。自分自身だけのことです。凜としたことです。意志のいることです。

誰のためでもなく、自分自身のあり方として、そんな心持ちで立つ台所。

そうか…。元来怠け者である私が時折、ひたすら野菜の面取りをしたくなるのは、そんな気分が高まったときであるのかも知れません。

きっと己の面取りをしてるのですね。
そう、一寸ひと手間。背すじを正してカドを取りませう。

※写真は台湾の市場で見かけたまな板です。どうやって作ったのか竹を固めて作ってあります。メンマみたいです。

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