一本だたら

猛吹雪の中、私は重いリュックを背負い今にも倒れそうになりながら雪山をさまよっていた。一歩一歩雪を踏みしめるごとにまぶたも少しずつ下がっていき、激しい雪と風は容赦なく全身を突き刺した。朦朧とする意識の中、私はなぜ自分がこんな状況に陥ったのかを思い返していた。

そうだ、会社の先輩が社内レクリエーションとして企画した雪山登山イベントに参加したのだ。私はいかにも体育会系なその先輩のことが苦手だったし、そもそも集団行動が嫌いなので、人数が少ないからと誘われても一度は断った。だが先輩は狡猾なことに、勧誘を諦めるふりをして最後に「経理の宮部さんも参加するのになあ」と聞こえるようにつぶやいて去っていった。

古くさい表現かもしれないが宮部さんは我が社の「マドンナ」だ。どこか幼さを残すその美貌は、ベテラン社員から若手社員、新卒で入ったばかりの社員までも魅了していた。そんな彼女が雪山登山という華のないリスキーなイベントに参加するとはにわかに信じがたかったが、むしろそういうものに興味があるのかと考えるといっそう彼女の魅力が増すように思え、数時間葛藤したものの、雪山という危険な場所における吊り橋効果が期待できるのではないかという妄想が頭をよぎった結果、気づけばその日の終業前にメールで先輩へイベント参加の連絡をしていた。

ところがどうだ。当日になってみれば集合場所に集まったのは男性社員のみ6名。ベテランから若手まで、私を含め明らかにぱっとしない者ばかり。みんな宮部さん目当てであることに間違いない。企画者の先輩が釈明するところによると、女性社員3名も参加予定だったが、運悪くみなそれぞれの理由でドタキャンしてしまったとのことである。私たちは先輩に聞こえないくらいの小さな声で「宮部さんが来るというのがそもそも嘘だったのだ」とつぶやきあった。だが実際、ドタキャンと言うのは本当だっただろう。もし私が女性社員の立場だったとして、この男性社員の面子を事前に知ったならば、やはりドタキャンしたに違いないからだ。参加者はみんな、それを心の中に秘めていたことと思うが、誰も言葉には出さなかった。何もかもを明らかにすればいいというものではない。「すべてが先輩の嘘だった」ということにする方が健康的だという暗黙の了解があった。

こうしてウキウキもワクワクもしない雪山登山イベントが幕を開けた。周りを見渡してみると、ほとんど全員が普段着にダウンジャケットを羽織っている程度の軽装。せいぜい丘くらいにしか登れなさそうである。そもそも全員「そこに山があるからといって、なぜ登るんですか?」と言わんばかりの顔つきを普段からしているような連中である。山に登るくらいきつい体験をしようとする気概のある者たちならもう少し会社でも輝けるというものだ。その点で言うと、私は多少ましだった。事前に雪山登山に必要な知識をネットで仕入れ、神田小川町のスポーツ店街で装備品を購入しておいたのである。なにしろピンチになったときに対応できる程度の備えをしておかなければ、吊り橋効果は期待できない。

それにしても一番腹が立ったのは、主催者である先輩が革ジャンにチノパン、スニーカーという軽装なうえに、あろうことか重装備の私を指差して「大げさすぎ」とげらげら笑ったことだ。明らかに雪山を舐めている。彼は中学から大学までずっとバレーボールをやっていたというバリバリの体育会系だったが、聞けば雪山登山は始めてだと言う。体力だけには自信を持っているタイプで、常に根性論だけで仕事を語るような男だった。

論理性をまったく欠く反面、決断力はやたらとある彼は、案の定多少天候が悪いにも関わらず登山決行を判断した。そして我々はあっという間に吹雪に見舞われた。それでも先輩は「すぐやむすぐやむ」と大声で叫びながら無謀にもどんどん突き進んでいった。日頃から運動不足である先輩以外のメンバーは追いついていくのがやっとだったし、それに加えて重装備な私は、次第にメンバーから遅れ出した。自分以外のことなどまったく気にしない彼らは、私がついていけていないことに少しも気づかず、あっという間に真っ白な風の中に消えていった。さすがにそのような状況でひとりきりになるのは勘弁だった。あんな連中でもいないよりましだ。私はアイゼンを装着した登山靴で雪を踏みしめ、ピッケルを突いて必死に歩き続けた。にわか知識で仕入れたにもかかわらずなんという頼もしさ。ヒトよりモノの方がよほど頼りがいがある。ピッケルを雪に突き立てれば突き立てるほど、先輩に対する怒りがふつふつと湧いてきた。もし自分もあの先輩も無事に山を下りることができたなら、私は彼に法的手段をもって復讐しようと思う。次に彼と会うのは会社ではない。法廷だ。

感覚として2時間ほど歩いたかと思われたが、一向に他のメンバーに合流できず、とうとう意識が遠のいて目の前がぼんやりとしてきた。ああこんな参加したくもなかったイベントに、少しばかり助平心を起こしたばかりにのこのこやって来て、挙句の果てには死ぬのか、なんてくだらない人生だ、何にもいいことなかったなぁ、と惨めな気持ちになってきたところ、吹雪の合間に黒い建物らしき影が見えたような気がした。もしやと思い、腕で目を拭った。影は確かにあった。なけなしの力を振り絞ってその方向へ進行すると、幻ではなかった。所々に穴の開いたボロボロの掘っ立て小屋が、しっかりとそこに建っていた。私はピッケルを投げ出さんばかりに喜んだ。おんぼろ小屋だか、その時の私にとってはベルサイユ宮殿以上のまばゆさを放つ建物だった。

私は小屋の中へ駆け込むと、ドアを閉めしっかりと鍵もかけて吹雪を断ち切り、床の真ん中にごろんと横になった。あぁ……。何時間歩いたかわからない。足がぱんぱんだ。小屋は長いこと使われていないらしかった。倒れ込んだ衝撃で埃が舞い立ち、天井を見上げると蜘蛛の巣がそこかしこにかかっている。部屋の奥に暖炉があるが、燃料にできそうな薪などがない。そもそも暖炉の使い方などわからない。くしゃみをした。その音は小屋のところどころの隙間や割れたガラス窓から外へ吸い込まれていき、代わりに強い冷気が遠慮なく入って小屋の中を満たした。吹雪を直に受けないのはありがたいが、外と気温はそれほど変わらないように思えた。状況はあまり良くなったとはいえない。食料らしい食料も持ってきていない。せいぜい板チョコひとつだけだ。結局こういうところの詰めが甘いのだ。これまでの人生もずっとそうだった。もうちょっとうまくやることができれば……。そんなどうしようもないことを考えているうちに、募った疲労のせいかまぶたが急激に重くなり危うく意識を失いかけて、私は慌てて飛び起きた。こんな中で寝たら確実に死ぬ。「寝たら死ぬぞ!」と言ってくれる相棒もいない。リュックの中に寝袋はあるが、そんなものにくるまったらすぐに眠ってしまいそうだ。なんとか吹雪が弱まり救助が来るまで耐えなくては。

その時、小屋のドアをどんどんと叩く音がしたような気がして、驚いた私はドアの方を振り向いた。風だろうか。しかしあまり規則性がなく、生き物が作為的に叩いたような響きだったように思える。もしかして、熊だろうか。子どもの頃に読んだ漫画で、巨大な人喰い熊が山小屋の中に押し入り、中で避難していた人の頭をぺしゃんこに叩き潰す描写がトラウマになっている。自分が同じような状況になるのでは。いや待て待て。いくら熊でもこんな吹雪の中をおいそれと出歩くとは思えない。

再びどんどんとドアを叩く音がした。今度ははっきりと聞こえた。間違いない。向こう側に何かがいる。

そうだ、もっと現実的な可能性がある。さっきはぐれた連中がここに辿り着いたのだ。あんな連中と避難しても状況はそれほど改善しないだろうが、さすがにひとりで眠気と戦うのは無理がある。順番に寝て起こし合えば少しでも生還の可能性は高まるだろう、などと考えているうちにまたドアをノックする音が聞こえた。はいはい今開けますよと、ドアへ駆け寄り鍵を外そうとしたところで、私はふと考えた。あの連中ちゃんと食料を持っているだろうか。ほとんどのものはピクニックに行く程度の小さなリュックしか持っていなかったし、私以外で唯一大きなリュックを持っていた先輩も、中はほとんど酒瓶だガハハと豪傑ぶって馬鹿みたいに高笑いしていた。彼らが食料を持っていないとなると、私の持っているチョコレートを分け合うことになる。あの先輩のことだ。きっと一方的にリーダーシップをとって分配の仕方などでごちゃごちゃ言うに決まっている。睡眠の問題が解決する一方、食料の問題が浮上してきた。本当に連中を受け入れてもいいものだろうか。協調性のない者同士、醜い諍いが始まるような気がしてならない。決断が鈍り、ふぅむと考えこんでしまった。

その間に疲労はどんどん蓄積し頭にモヤがかかったような状態になった。その結果、私はもうひとつの突飛な可能性にとらわれた。昔話でよくある話だが、今の私と同じように吹雪に見舞われて山小屋にこもった若い男のもとへ美しい女がやってくる話。そう雪女だ。雪女と言えば美女と相場が決まっている。このドアの向こうにいるのは美女なのではあるまいか。私は宮部さんによく似た雪女を空想した。下半身に血液が溜まっていく。こんなときにと思われるかもしれないがこんなときだからこそだ。死に直面するにあたって遺伝子を残したいという欲求がしとしとと岩清水のように身体の内から湧き上がってくる。不可抗力だ。

そうこうしているうちに、向こう側の何かはしびれを切らしたのか、ドアを乱暴にがたがたがたと鳴らし出した。この際、もう誰でもよいかという気分になった。何が現れても今よりは何かがましになる。そう、たとえ熊であり喰われることになったとしても、その栄養となってひとつの命を長らえさせる糧になるのならば、それはそれで美しいことではないかという気にもなってきた。とにかく開けよう。

とはいえ私は心の準備のために、次のような希望順位をつけた。
(1)雪女
(2)会社の誰か数人(先輩以外)
(3)会社メンバー全員(先輩を除く)
(4)熊
(5)先輩
よし、開けるぞ。

鍵を外してゆっくりとドアを開き、そこにいるものを見て、私は声を失った。想像していたもののいずれにも当てはまらないものだった。それは、毛むくじゃらの瓜のような胴体から、幹のようにたくましい一本足が生えている、ひとつ目の化け物だった。胴体の両横からは2本の腕が伸び、化け物のくせに頭に笠をかぶって蓑を着ている。

一瞬あっけにとられたが、しばらく観察して、私はそれが何であるかを理解した。「一本だたら」だ。山に棲む妖怪で、「だたら」というのは「たたら場」から来ている。たたら場は要するに昔の製鉄所のことだ。製鉄反応に必要な送風装置である「ふいご」のうち、足で踏んで風を送るものを「たたら」と呼ぶ。スタジオジブリの『もののけ姫』を観た人ならわかりやすいだろう。主人公が助けた村人の村がたたら場で、そこに住む女性達が力を合わせ大きな板を一所懸命踏んでいるシーンを覚えているだろうか。ああやって鉄を製造していたのだ。大変な重労働である。何度も何度も片足でたたらを踏んでいるうちにその足が使えなくなり、また鉄を溶かすための高熱の炎を見続けているうちに片目が潰れてしまう。そうして片足片目となったたたら師を見た里の人が妖怪と勘違いしたことが、一本だたらの由来と言われている。

子どもの頃、食事中もトイレの時もとにかく四六時中水木しげるの妖怪百科を携帯していた私にとって、この程度は初歩的な教養だった。この知識は、これまでの日常生活においてはまったく役に立たなかったが、まさにいまこの非日常の状況においても、やはり少しも役に立たないのである。妖怪の特性を知ったところでこのピンチをどう脱することができるというのか。一本だたらが人を喰うとは書いていなかった気がするが、このグロテスクな化け物が無害とは到底思えない。何らかの方法で命を奪われるに違いない。ああどうしてこうなのだ。どうせ物の怪が出てくるのならば雪女がよかったのに。熊ならいっそ喰われてもいいかと思ったが、こんなわけのわからない醜い化け物に喰われたとして、果たして私の血肉は自然に還ることができるのだろうか。ああ最期まで自分はこんなわけのわからない感じになるのだ、ヨヨヨ……と泣きそうな気持ちになっていると、「一本だたら」がその大きな口を開いた。

「なんだ、人がいたのか」

その声の質感は見た目に違わずおぞましいものがあったが、あまり野蛮さを感じないというか、どことなく紳士的な口調に思われた。ふと、「一本だたら」の頭上に水色の球体が浮いていることに気づいた。いや、よく見ると彼が背中に背負っているものから球体が飛び出て、カメラらしきレンズがところどころについていた。私はこれも知っていた。『トラッカー』だ。いつかネットのニュース記事で読んだことがある。Googleがストリートビューの写真撮影のために使用する、360度撮影可能な特殊カメラである。

「まいった、こんなところに人がいるとは想像していなかった」

一本だたらはぽりぽりと頭と思われる部分を書いていた。その仕草が妙に人間臭いので私の恐怖心が少し薄れ、思い切って話しかけてみることにした。

「もしかして、あなたはGoogleの方なのですか」

一本だたらがぎょろりとした大きな目をこちらに向けた。しまった、気安すぎたか。

「そうだとも。ところで、これから私はこの小屋の内部を撮影しなければならない。申し訳ないが少しの間だけ外に出ていてくれないか。人が写っていると顔にぼかしを入れなければならないので余計なコストがかかるんだ」

思いの外、彼がジェントリーに答えてくれたので私は安心した。しかしこの吹雪の中を出ていけとは随分だ。

「はあ。でも外は寒くて……」

話が通じそうだと判断した私は、多少の抵抗を試みることにした。一本だたらは顎らしき部分に手を当てて少し思案していたようだが、羽織っていた蓑を脱ぎ、私の方へ差し出した。

「ならばこの蓑を貸してあげよう。なに、ほんの5分程度でいいから」

こんな藁でできた蓑ごときで極寒を凌げるわけがないだろう、しかもなんだか臭そうだしと内心文句を垂れつつ受け取って着てみると、どういうわけか、これがものすごく温かい。まるでこたつの中で身体を丸めているような心地になった。

「ほわぁ……」

「さあ、出た出た」

温かさで悦に入っていた私の背中を一本だたらは押して無理やり小屋の外へ追い出した。不思議なことに風や雪の冷たさをまったく感じなかった。さすが妖かしの持ち物である。もしかしてGoogleの支給品だろうか。それにしてもさすがだ。「世界中の情報を整理」するというGoogleのミッションは伊達ではないということか。物の怪まで雇用してこんなところの情報を集めるとは。まったくもって考えることが違いすぎる。やはりうちの会社とは違うなぁ……などと物思いに耽っていると、予測よりも早く小屋のドアがきぃと開いて一本だたらがでかい顔を出した。

「お待たせしたね。撮影は終了したよ。さあ蓑を返してくれ」

私が脱ぐよりも早く、一本だたらは蓑を剥ぎとった。その瞬間、私は激しい吹雪に再び晒され、がたがたと震えた。

「では、さようなら」

さっさと立ち去ろうとする一本だたらに私はがちがちと歯を鳴らしながら話しかけた。

「あ、あのぅ、すみません、じ、実は私、そ、遭難しているのです。み、み、見たところあなたは、こ、こ、この寒さをものとも、し、し、していないようです。あの、その、差し出がましいことですが、あの……」

「結論ファースト!!」

一本だたらが突然叫んだので私は驚いた。

「君は何が言いたいのかね!?話をするときは結論から話す!それがビジネスパーソンとしての常識ダロウ!!」

「は、は、はい……。つまりその、た、た、助けていただきたいと……」

「助ける?」

「は、はい……。なんとかその、私を、私を、ふもとまで、つ、つ、連れて行って、い、い
、い、いただけないでしょうか」

「それは、できない」

一本だたらはぴしゃりと私の要望をはねのけた。

「な、な、なぜ……」?

「山岳救助は私の仕事ではない。契約書に書いていないからね」

「そ、そうですか……」

なんということだ。放っておいたら確実に死を迎えるであろう人間を目の前にして、この冷酷さ。やはり人ならざるものだからだろうか。それとも外資系企業の社員だからか。

「では今度こそ失礼するよ」

「あ、ま、ま、待って。も、も、もうひとつだけ質問を……」

「何かね!?早く言いたまえ」

妖怪は再び声を荒げた。

「あ、あの、ぐ、Googleの社員の年収が900万円以上というのは、ほ、ほ、本当ですか」

一本だたらは太く長い眉をひそめ怪訝な顔をしながらも、

「本当だとも。質問は以上かね?それじゃあ行くよ。ご協力ありがとう」

と答え、「トラッカー」を背負ったまま一本足をバネのようにしてケンケンパの要領で吹雪の中へと消えていった。

私はしばらく妖怪の去った方を呆けたように見ていたが寒さに耐え切れず、小屋の中へとぼとぼ戻った。あいかわらず隙間風がぴゅうぴゅうと入り込んで部屋の温度を下げていた。なんだかどうでもよいという気分になった私は、小屋の中央でリュックから寝袋を取り出して、それにくるまった。一本だたらの蓑ほどではないにしても、極楽のような心地だった。

徐々に意識が遠のいていく中、私は「3倍かぁ……」と静かにつぶやき、宮部さんによく似た天使に誘われるようにして、深い深い眠りの底へと沈んでいった。

(了)

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