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国家間の問題と隣人の問題

こどもたちの通う現地校のPTAボランティアグループ(校内行事のお手伝い情報共有グループ)のグループチャットで、2月24日、あるお母さんからのメッセージ投稿があった。

その内容は「私の国ウクライナで、今朝から恐ろしい出来事が起きている。私はウクライナ人としてできる限りのサポートをするつもりなので、皆さんもどうか力を貸してください」と募金を呼びかけるものだった。

そもそも私が現地校のお母さんで知っている人はごく限られた人だけだし、グループチャットには60人ほどの参加者がいるので、そのメッセージの送り主が誰なのか、自分と直接面識のある人なのか、そのときはわからなかった。

彼女の呼びかけに対し、即座に「もちろん、協力します」「ウクライナの平和を祈っています」と返答する人もいる中で、私は何も返答しなかった。普段から、そのグループチャットで積極的に発言しているわけではないこと(校内ボランティア募集の呼びかけに対して参加表明をする程度)、ロシアウクライナ情勢について何も知らないこと、そして何よりこんな時にどのように声をかけてよいのかわからなかったからだ。今まで私の周りに"自分の祖国が隣国に侵攻された"という人なんて一人もいなかった。

その後も、他のお母さんからも何度かウクライナへの募金や支援物資募集の案内があったけれど、私はそのメッセージを読むだけだった。

ウクライナ侵攻が始まった翌週月曜日に、娘のクラスで、このことについて先生から話があったようだ。
「今、ロシアがウクライナに侵攻している。もし、ロシアがウクライナ全土を掌握したなら、次は隣国ポーランドに侵攻してくるかもしれない。そうなったら、ポーランドはNATO加盟国だから、イギリスも含めた多くの国が戦争に参加することになるだろう。もちろん、誰もそうなることを願っていないけれど。今は"少し離れた場所で起きていること"で、自分とはあまり関係がないと思っている人もいるかもしれないけれど、学校にはウクライナ出身の先生も児童もいるし、決して遠い世界の出来事ではない」というような話だったらしい。

その翌日、娘が「隣のクラスのEmily(仮名)は、お母さんがウクライナ人だって誰かが言ってた。私はEmilyとほとんど話したことないからよく知らないけど」と教えてくれた。

Emilyはクラスは違うけれど、同じ通りに住んでいるので、こどもたちを学校に送った後、Emilyのお母さんと話をしながら帰ったことが何度かある。と言っても、わが家は学校から徒歩1分の距離に住んでいるので、あいさつ程度のごく短いたわいもない会話しか交わしていないけれど。そんな短い会話からの彼女の印象は、いつもにこやかで、英語が得意でない私にもわかりやすく穏やかに話してくれる人だった。そしてどうやら、先日のメッセージの送り主は、このEmilyのお母さんだった。

彼女の出身がウクライナだということは、もしかしたらどこかで聞いていたかもしれないけれど、私はそれを覚えていなかった。恐らく、"ウクライナ"と聞いていたとしても、その時点では、"ウクライナ"について大きな関心を抱いていなかったのだろう。聞き流してしまうくらいなのだから。しかし、今となっては、"ウクライナ"と聞いて無関心でいられるはずもない。

毎朝、同じような時間に家と学校を往復しているにも関わらず、月曜日から木曜日まではEmilyのお母さんには会わなかった。しかし金曜日の朝、こどもたちを学校に送り出した後、少し前を歩いている彼女の姿を見つけた。グループチャットでのメッセージが来た時と同じく、なんと声をかけていいのかわからない。しかし、声をかけずにはいられなかった。

「おはよう。今週全然会わなかったから心配していたの。あなたはウクライナ出身だと聞いたから…大丈夫?」と声をかけた。

「そうなのよ。本当にひどいことになってるわ。私の両親と兄はウクライナにいるし、今はウクライナから離れたくないと言っている。今は大丈夫だと言っているけれど今後どうなるかわからないわね」と彼女は応えた。

「それはとても心配だね。何かできることがあったら言ってね」と私が言うと

「ありがとう。ここにいる人はみんな、本当に優しく温かい声をかけてくれるから嬉しいわ。じゃあね」と足早に帰っていった。

今回の件、私は「ロシアにはロシアの言い分がある」と思っている。けれど、だからといって軍事侵攻が、戦争が許されることであるとはもちろん思っていないし、民間人の犠牲者を出したり核施設を攻撃した今となっては、ロシアはやり過ぎていると思っている。でもやはり、絶対的にロシアだけが悪者だとも思えない感情があるのもまた事実。双方あるいは第三者の立場からものごとを見て考える必要があると思っている。しかし、そんなことを彼女には言えるはずもない。自分の国が隣国から攻撃を受けている人に「相手には相手の言い分があるからね」なんて言うほど無神経ではない。けれどそれは、無神経じゃないからというより、自分の考えに自信がないことの裏返しでもある。もし、私自身が明確な考えを持っているのなら、たとえ相手が誰であろうとも、自分の意見を伝えられるのかもしれない。しかし、自分の考えに自信がなく、しかも英語でそれを伝えることにも自信がない私には、結局のところ「大丈夫?」と尋ねるしかなかった。

どう考えても大丈夫ではない人に「大丈夫?」と尋ねた私は、結局、無神経だった。私は、彼女に何を何を伝えたかったんだろう。彼女から何を聞きたかったんだろう。私が彼女に声をかけたのは、ただ単に「私は無関心じゃないよ」とアピールしたかっただけなのかもしれない。彼女のためではなく、自分のために。

いつもにこやかだったEmilyのお母さんだけれど、この時の彼女には笑顔はなく、ずっと眉間に皺を寄せていた。その顔が忘れられない。

ウクライナとロシアという国家間の問題として捉えることも難しいけれど、自分の隣人が直面している問題として捉えることが、それ以上に難しいことであると、初めて気付かされた。

「何かできることがあったら言ってね」と言ったけれど、私は彼女に何ができるのだろうか。こんな宙ぶらりんな私にできることが、ひとつでもあるのだろうか。