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ロンドンの家事情

ロンドンに住んでいる日本人で、住環境に100%満足しているという人を聞いたことがない。みんな一様に、家の何かしらどこかしらに不満やトラブルを抱えつつも、それを受け入れて暮らさざるを得ないのが、ロンドンの住環境の現実なのだ。なぜ満足できないのかというと、日本とロンドンの住宅事情があまりにも違いすぎるから。

日本では、“築100年の古民家”というと珍しがられ、重宝されるが、こちらでは築100年はザラ、中には築200年以上なんてものもある。ロンドンは日本のような地震や台風などの天災が少ないために、古いものは古いままずっと残っているのだ。そしてそれを良し、古きを良しとする文化ということもあり、新しいモダンなデザインに建て替えよう、などという傾向もあまり見られない。全てが古い。古くて当たり前。それがどうした、とでも言わんばかりに古い。だから、人間が年老いてくると、膝が痛い、腰が痛い、歯が抜けた、耳が遠くなった、と身体中あちこちに不調が出てくるように、家も古くなればなるほどあちこちにガタが出てしまうのである。

我が家は築何年かと不動産屋に聞いてみたことがあるが、よくわからない、とのことだった。それでいいのか、管理業者よ…と思ったが、わからないというのだから仕方がない。しかし、100年経っていてもおかしくはなさそうだ。この家に暮らして4年目に突入したが、これまでに起きたトラブルは、シャワーブースからの水漏れ、浴槽からの水漏れ、キッチン天井の水漏れ、トイレの水漏れ、キッチン内の部分停電、家全体の停電、庭の水道管の破裂、セントラルヒーティングの不具合、洗濯機の故障、換気扇からの異音、キッチンライトの破裂、鍵の破損、蟻の侵入、と枚挙にいとまがない。奈良のマンションでは家のトラブルが起きた記憶は一度もないが、こちらに来てからというもの、トラブルは日常茶飯事となった。初めの方こそ、トラブルの度にうろたえ、不安を感じ、憤っていたけれど、だんだんと慣れてくると、あぁ、またか、という風になってくる。そして何かトラブルが起き、不動産屋を通じて修繕業者の手配を依頼しても、すぐには来てくれてなかったり、ようやく取り付けた約束の時間に来なかったり、来ても「今日は部品がないからまた別の日に来る」と言って何もしてくれなかったり、修繕してくれたと思ったらむしろ改悪されていたり、一筋縄では治らないことの方が多い。いちいちそれにイライラしたりため息をついていてはキリがない。と、わかっていてもイライラしたりため息をつきたくなることも多々あるが。

それでも、私は今、住んでいる、住まわせてもらっている家が好きだ。この家の私の1番のお気に入りポイントは、光と影の美しさ。東側2階に私と夫の寝室があるため、日が昇る季節には寝室にまず朝日が差し込み、陽の光で目覚めることができる。日の出が遅い季節には、だんだんと明るくなっていく空が見える。ブラインド越しに差し込む朝日は、季節によってその色、強さ、角度が変化し、気持ちの良い朝を迎えさせてくれる(と言っても曇天が多く、また日照時間の短い時期が長いため、なかなか起きられないことの方が多いのだが)。そして1階のリビングには東西に窓があるため、朝は朝日、夕方には西日も差し込んでくる。西側には庭があり、庭の木々を透過して光を和らげられた西日はただただ美しい(夏場は陽射しが強すぎて眩しすぎてカーテンを閉めなくてはならないほどだが)。
また、キッチンにも東西両面に窓があるため、1日中、光と影の移ろいを楽しむことができる。私は一人で家に居る時間が長いのだが、冬の寒い時期と夏の暑い時期以外は、大半の時間をキッチンで過ごしている。料理の時間が長いということではなく(もちろんそれも理由のひとつではあるが)、キッチンに居ることが好きだから、パソコン作業や本を読む時間もキッチンに居ることが多いのだ。ふと顔を上げたときに一筋の光や影のゆらめきを見つけると、自分だけの秘密の宝物を見つけたような気分になる。また、天気が良くて風の強い日の夕方には、私は海の中にいるのではないかと錯覚してしまうことがある。水中から海面を見上げたときのようなきらきらとした光の粒と波打つ影が現れる初夏や初秋の夕方に、ひとりでぼうっとキッチンで過ごす時間はとても贅沢なひとときだ。今の時期は、だんだんと明るくなっていく朝方の東の空を眺めるのもよい。ただし、晴れた日に限るし、朝から気持ちよく晴れる日はそう多くないのだけれど。
そして、日中のキッチンから庭を眺めると、だいたいいつも猫たちが寛いでいる。我が家で飼っているのではなく、隣のアパートのメアリーに食事と寝床とを提供されている半野良の3匹の猫たち。彼らにとってうちの庭は、日向ぼっこをする場であり、トイレでもあり、日中をゆるゆる過ごすための場所なのだ。トイレとして使用されるのは歓迎すべきことではないが、目くじらを立てて追い出すほどのことでもないので許している。芝生や物置きの上でのんびり過ごしている彼らの姿を、こちらもまたのんびりしながら眺めることも、いつの間にか私の日課となっている。猫のように気ままに生きられたらなぁ、なんて思っていたけれど、仕事もせずダラダラと過ごす時間の多い今の私の生活は、割と猫寄りの自由気ままな暮らしだよな、とも思う。北村匠海に呼ばれているのかもしれない。彼のもとにふらっと現れてみようか。何気ない毎日を私色に染めてみようか。

私は整理整頓と掃除がすこぶる苦手なので、家をいつもきれいに快適に保ち続けることができない。けれど、それでも、1日中家に居ても飽きることなく、リラックスすることができる。この家は、ちゃんと掃除も手入れもできない私を受け入れ、包み込み、雨風をしのぐ場所と温もりと安らぎと、ときに試練を与えてくれるありがたい存在。人に人格があるように、家にも家格なるものがあるとするならば、この家は相当な家格者であると確信している。そんな家に出会えたことに、そんな家で暮らせていることに、そんな環境を与えてもらっていることに、感謝する日々である。