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私の◯◯◯そのものが、“未来へのバトン”

”未来のためにできること“
自分に、自分だけに、“未来のために何かができる特別な力”があるとは思っていない。けれど、少し考え方を変えるだけで、私にも“未来のためにできること”があるんじゃないかと思うようになった。そう思える出来事が、私の身に起きたのだった。

それは、過去数回のnoteに書いてきたこと、ロンドンの映画館で『Oppenheimer』を観て、違和感、憤り、悲しみを覚えた私が、被爆後の広島で撮影された映画『ひろしま』を上映したいと感じ、実際に上映した一連の出来事だ。その流れの上流には、昨年のファッションデザイナー三宅一生氏の訃報、さらにその根底には、昔からイッセイミヤケの服を愛用していた母の姿があった(詳しくは過去の記事にて)。

そのことと、“未来のためにできること”がどう繋がるのか。それは、自分の身に起こることや、誰かや何かとの出会いだけでなく、自分の意思や選択のひとつひとつが“未来へのバトン”であり、“そのバトンを次に繋ぐ”ということがつまり、“未来のためにできること”そのものだから、ということだ。
“未来へのバトン”は、実は自分でも意識していないようなことかもしれない。母がイッセイミヤケの服を着ていたことは、母かバトンだと思ってしたことではなく、ただ好きで着ていただけ。私が勝手にそれを後付けでバトンだと感じただけだ。けれども、何を着るか、何を観るか、どこへ行くか、など自分の生き方が、計らずも“未来へのバトン”になることがある、ということに、私は自分の経験を通して気がついたのだ。

日々の暮らしの中での、ひとつひとつの自分の思考、選択、行動そのものが、常に“未来へのバトン”であることを意識する。そしてそれがどこかに、誰かに、繋がっていくかもしれない。そう考えると、何か大それたことでなくたって、自分にもできることはたくさんあるはずだ。自分の生き方そのものが、“未来へのバトン”であり、“未来のためにできること”に繋がっている。そう思いながらひとりひとりが生きていくと、より良い未来になるような気がしないだろうか。
ミツバチが花から花へと飛び回ることが草花の実りを生み出すように、リスが冬に備えて地中に埋めた木の実がやがて大木になるように、自分の何気ない生き方そのものが、知らず知らずのうちに未来への種に、バトンに、なる可能性が、あるはずだ。

#未来のためにできること