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悲しい正しさ 釈行信「常々無常流々流転」No,006 『西念寺だより』平成21年8月号掲載

 最近は正しさに惑わされています。色んな場面で、「これでいいのだろうか」ということを考えてしまいます。そういう不安がない人は自分が正しいという根拠をどこかで手に入れているのでしょうか。

 最近気になるのは、他人を否定することで自分が正しいとする在(あ)り方(かた)です。普通、正しさが先にあって成立する間違いですが、正しさの根拠が確かでなくても、他人の間違いを指摘することで、指摘した自分の正しさが際立つという構図です。

 アメリカでは戦争をすると大統領の支持率が上がることが多いそうです。それは悪を成敗する大統領の正しさが際立つからではないでしょうか。与党批判、野党批判も国政のためなのか、自分の正当化のためなのかわかりません。このように言う私の文章も他人を否定することで正しさを得ているのではないでしょうか。

 常に相手を否定していなければ維持できない自信、自分の正当性の悲しさを最近痛感します。いのちはそんな正しさとは無関係に生きています。初めから当然のように頂いている何かを私は忘れてしまっているのでしょうか。

よしあしの文字をもしらぬひとはみな

まことのこころなりけるを

善悪(ぜんまく)の字しりがおは

おおそらごとのかたちなり 

『正像末和讚(しょうぞうまつわさん)』
親鸞

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