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「否定」のむずかしさ - 批評が「奉仕」にならないために

 美術評論家のジェリー・サルツの記事を読んでいて、こんな言葉が目に入ってきた。

要するに、今の美術評論はどれもこれもアーティストへの“奉仕”です。そのこと自体に文句は言いませんが、否定的な言葉は排除され、もはや批評と呼べるものではありません。(略)伝えたいのは、私が否定的なことを書くのは、そのアーティストが格下だとけなすためではありません。…

「「世の中の展覧会の85%はゴミ。それでも足を運ぶ価値はある」──大物美術評論家のジェリー・サルツ、大いに語る」(ARTNews JAPAN)

 いわゆる提灯記事・御用記事などと揶揄されるようなものについては確かにその通りだと思うけど、ここでは普段、あまり批判めいたことを書かない私の立場から少し思うことを書いてみたい。

 自分の書いているものは「評論」と呼べるほど高尚なものではないけど、それでも批判の書き方というのは相当注意している。具体的には、全く面白くない、自分が感想を書くことにメリットを感じない展覧会については感想文を書かないということもあるし、批判する内容もなるべく「さすがにそれは…」と思ったことだけに絞るようにしている。サルツの言う通り、そういうことを言うのは「けなす」ことが目的ではないけど、現実には話す側が思う以上に聞く側はけなされたと受け取ってしまうことが多い。そのため、表現も相手を傷つけないようにと、婉曲的になることが多い。

 個展などの場合、私的な関係の無い相手の批判を書くということも基本的にはしない。話し合える関係の相手が「どうだろう」という作品を作っていたとしても、それは直接伝えるような気がする(そういう相手がいるわけではないけど…)。今どき作者側がエゴサーチをしているのは(しない選択肢もあるが)常識になった感があるので、言うことが作者に届く可能性を常に考慮してはいる。
 そういう意味では確かに「奉仕」に陥っているのかもしれないが、相手の主張に一字一句付き合うということもしない。書きたいのはあくまでも「自分の考え」なので、「つまらない」ものを「おもしろい」と捻じ曲げるような嘘は書かないようにしている。

 批評そのものにとって、否定は必要であると思うけど、同時に建設的であることも批評の前提というか、求められるものだと思う。ありがちではあるが、ただの悪口・陰口の類になってしまうのはできることなら避けたい。
 しかし、その「建設的な批判」というのが難しい。言葉の上だけで解決できる問題ではなく、相手との関係だったりそれを伝達する環境だったりにも気を使わないと、「批判」はできても「建設的」にはならないだろう。

 あと、インターネットのような、不特定多数を多かれ少なかれ意識して書いている、というのも一つの理由なのかなと思っている。
 批評には物事の好き嫌いを判断するという側面がある。このとき、友達や家族に言うぐらいだったらまだ好き嫌いはプライベートなものとして受け止められるけど、それをわざわざ関係性の乏しい不特定多数に発表するというのは普通の行為じゃなくて、それは公的な要不要の議論へと、不寛容な変貌を遂げる。仮にそういうつもりがなくても、そう受け止められる可能性があることは覚悟しなければいけないと思う。
 その際、GDPや法定雇用率のような客観的な指標があればまだ良いけど、芸術は評価の主観性が高くて、よほどの違法行為が含まれているとかでも無い限り「有害」な芸術というものを想定することは難しい。「面白い」は「有益」であるけど、「つまらない」は公的な「有害」とまでは言えない。そのとき、「つまらない」は果たして公的な批判の対象になりうるのか。
 これは私個人としての考えになってしまうんだけど、誰か一人でも面白がって、そこになんらかのカタルシスを感じることができれば「芸術」の要件としては十分だと考えていて、それを友達の距離で「そうかなぁ…?」と言うぶんには良いというか、ふだんはもっとガンガンに言ってたりもするけど、そういうことを顔の見えない不特定多数に向けた発表するというのは、最悪芸術がある人たちに与えていた楽しみを奪っていないだろうか…そんなことを考えてしまう。

 否定すること自体を選択肢から排除するのはやりすぎだけど、傷つける言葉には違いないから、その言い方や関係性、環境…そういうものを考えれば考えるほど、第三者に否定語を言う機会は減っていくなと思う。慎重すぎる考え方かもしれないけど。

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