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美術が「見える」時 - セザンヌの風景画から

 昨年美術検定の勉強をしていた時、セザンヌの風景画の何が凄いのかがわからなかった。

(画像はWikipediaより)

 美術検定のテキストでは《サント・ヴィクトワール山と大きな松の木》(上図)がセザンヌの作品として示されている。最初これを観たとき、「風景…画……ですね………」以上の感想が出てこなかった。印象派のそれに比べると色のきらめきを描いているのではなく、もっと地に足つけた表現をしていることぐらいはわかるが、せいぜいそれぐらいだ。

 テキストではセザンヌについて、次のように解説している。

 ポール・セザンヌ(1839-1906)も印象主義のように自然を描くことを好みました。ただ彼の場合は、つかの間の光や移ろいやすい印象には興味がなく、古典絵画のようにしっかりした画面構成を目指し、サント=ヴィクトワール山を何十回も描いたように、自らの理想を追い続けたのでした。
 一見すると平らに見えるセザンヌの絵は、筆の重なりによって微妙な遠近感を感じさせます。これまでの絵画の遠近法や明暗法ではない、新しい空間の表現方法なのです。こうした方法は次の世代、キュビスムや20世紀後半の画家たちに大きな影響を与え、セザンヌは高く評価されるようになりました。
(『改訂版 西洋・日本美術史の基本』美術出版社、p87)

 この解説の言うとおり「筆の重なりによって微妙な遠近感を感じ」ることができれば話が早いのだが、とにかくその感じがわからない。そこがはっきりしない以上、後に続く「次の世代、キュビスムや20世紀後半の画家たちに大きな影響を与え〜」といった話も何も響いてこない。実際セザンヌは(遅咲きではあるものの)生前、キュビスムの登場以前にちゃんと評価されていた画家であり、必ずしもキュビスムが凄かったから評価されたというような「後の評価」の画家ではない。我々を含む後世の人間がどどう評価しているのかではなく、同時代の人たちがなぜこれを絶賛したのか、そこを知りたいのにわからなかった。

 美術検定が終わった後もセザンヌ風景画との格闘は続く。リンゴやレモンといった静物の、モノ単体としての存在感の凄みは多少わかるようになったものの、構図となるとなおも「?」となってしまう。

 セザンヌの解説でよくいわれる「多視点」の導入は多少腑に落ちるところもあったが、それは主に静物画の話で、風景画である《サント・ヴィクトワール山〜》には該当しないように見える。そもそも「多視点」にしても、多少絵に心得がある人間がアタリを取らずに構図を描けば似たようなものは描けるんじゃないかという気がして、多視点であることに何の価値があるのかが見い出せなかった。

 どうしたもんかと思っていた折に、色彩遠近法の話を聞いた。色彩遠近法というのはざっくり言うと、赤→黄→青と暖色→寒色の順に色が前に出てくるように見えるというものであり、セザンヌはこの手法を多用しているのだという。ちなみにセザンヌには《道化師》という、青い背景と赤い道化師との対比で道化師の立体感を浮き立たせようとしている作品があるので、これを見てもらうのがわかりやすいかも知れない。

(画像はやっぱりWikipediaより)

 色彩遠近法の視点で改めて《サント=ヴィクトワール山〜》を見ると、確かに上から下へ寒色→暖色のグラデーションとなっており、画面上方が後景だということがわかる(ここではとりあえず松の存在は無視している)。しかしこの時、私は色彩遠近法を誤解していた。つまり、「遠いものだから寒色」「近いものだから暖色」と記号的に考えてしまい、更に空気遠近法(遠景をぼかして描く技法)と色彩遠近法は対立関係にあると勝手に考えてしまったことで、いちどわかりかけたセザンヌがまたわからなくなってしまった。

 現在の印象だが、《サント=ヴィクトワール山〜》には色彩遠近法、(そこまではっきりとではないが)空気遠近法、そして引用したテキストにある「筆の重なり」による遠近法の、少なくとも三つが用いられており、それらは反発することなく調和している。それを強引に色彩遠近法のみで解釈しようとするから、わからなくなってしまっていたのだと思う。こうして私はまた美術鑑賞の迷路に迷い込んでしまったが、前進はしていたようである。解釈に問題こそあれ、作品を観るために必要な道具は揃ってきていた。

 そして、「その日」は突然訪れる。それは先日(10/16)、国立西洋美術館で開催されていたロンドン・ナショナル・ギャラリー展で、その日は一度訪れているということもあり、ゴッホの《ひまわり》のみが目的だったが、流す感じで他の作品も一応チェックしていた。その中には当然セザンヌもいる。階段を降り、印象派作品が飾られた部屋の中、セザンヌの前に足を止めたとき、突如としてセザンヌの絵が立体的に目の前に現れてきた。岩肌と空が明らかに分化し、たとえるのなら3Dメガネか飛び出す絵本のような立体的な層が、感じるというレベルではなく、はっきり見えた。美術鑑賞をするうえで、今までに無い経験である。

 私は思わず「はわわわわ!」となった。ここで私がアニメ声の10代女性とかなら素直に声に出し、今後は特段のネタがなくても「今日は暑いですね」などと自撮りやTikTokで茶を濁しておけばSNSのフォロワーを大量獲得できたかも知れないが、あいにく30代後半、白髪混じりで若干中年太りの兆しがあるメガネ男なので、声に出すのは我慢した。そんなオジサマが少女になってしまうほど、この視点の獲得には驚きと興奮があった。

 この感覚を覚えた今なら、《サント=ヴィクトワール山〜》に何が描かれているのか、多少はわかるような気がする。昔は見えなかった、山から町、そして画家の立つ丘へと連なる、弧のような繋がりが今なら見える。そして最前にある松の木がその景色を包み込む。大きな存在であるはずなのに調和しあう二つの関係。私にとってのセザンヌはもうただの「風景…画……」ではなくなっていた。

・・・

 そして、ロンドン・ナショナル・ギャラリー展を観に行った翌々日(10/18)、今度は新宿髙島屋へ今井麗展を観に行った時、もう一度「はわわわわ!」となった。どうも私の心の中には10代女性が住みついているらしい。

(筆者撮影)

 画家としての今井麗さんの名前を知ったのは今年の初めだけど、今回ですでに4度目の個展訪問である。その造形や明るい色彩には前々から心惹かれるものがあったけど、構図にまでは正直そこまで関心を払ってこなかった。今回も同じだったが、ふとこの絵の前に立ったとき、手前の机の角が妙に気になってきた。そう、セザンヌの絵を見たときに浮かび上がってきた立体感が、少し違った形で私の前に現れてきたのである。

 この絵は風景画ではなく、分類としては静物画になる。ということは「多視点」だろうか。ここで"セザンヌの"作品を見るときは正面からのみではなく、視点を動かすと良いと聞いたことを思い出し、視点を右に移してみた。

(右から見た図)

 非平行だった机のラインとキャンバスの境界線が平行になり、椅子のラインはこの写真の境界線と平行へと近づく(改めて見るとキャンバスの縦と写真が平行になっておらず、そこはもう少し意識して撮っても良かったかも知れない)。正面から見ると不規則に並べられているように見えていた椅子机が、今度は規則正しい構成のようにも見えてくる。当たり前なようでいて、それが不思議な感じもする。そして、その中で机の立体感は消えることなく目の中に残り続けている。

 作者の今井さんがどこまで意図したかはわからないけど、まるで立体の机を見回しているような体験を、絵画で体験している。もちろん遠近法や多視点といった技術的なものだけじゃなく、そういった技術によって起きた現象を前にトキメキを感じた自分がいる。この感覚をセザンヌの静物画でも(画集も見ているが、できれば実物で)改めて確認したいし、これによって他の作品の見方も変わるのか、また、今の自分が予見しないような全く新しい見方が登場するのか。

 いずれにしても、このトキメキが続くなら、まだまだ美術は楽しめるような気がする。世の中わかることばかりではないが、わからないことがわかった瞬間はやっぱり嬉しい。

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