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「もののけ姫」考察ー対立と秩序の構図ー




 私の記憶が正しければ、数年ぶりにもののけ姫を鑑賞した。ちょうど金曜ロードショーでかの作品が放送されたことを知り、翌日には近所のレンタルビデオ店でお目当ての「もののけ姫」と「耳をすませば」の2本を借りた。

 あいにく私の部屋にはテレビはないので、ノートパソコンにつないでみることになるのだが、いかんせん味気ない。帰りにスーパーでトルティーヤチップスと炭酸水を購入した。帰宅してから早速パソコンに外付けの読み取り機をつなげ、DVDを読み込む。チップスは口に入れるたびに音が鳴るので音が聞こえづらい。税込み98円の方は早々に退場させることにして、部屋のライトを暗く設定し、壮大なBGMとともに始まるこの映画の世界に入り込んだ。

 結果として、大変見ごたえのある作品だった。前回見たときには気づかなかったが、対立の構図が巧みに描きだされているのが印象的であった。

 もののけ姫のあらすじを簡単に説明する。北方にすむ少年、アシタカは自身に受けた祟り神の呪いの糸口を探すために西方へと赴く。西方には古代のままの姿の自然界の神々が暮らしている森があり、川向うにはたたら場といわれる集落があった。自然を破壊し、文明を発展させる人間とそれに対抗する森の生き物、その板挟みになるアシタカと山犬に育てられたサンが運命を懸命に生きる物語である。
 
 文明と自然、神と人間、小さな世界と大きな世界、愛と憎しみ、そしてなによりも生と死を扱った繊細で壮大な物語。

 人の気持ちや信条は一筋縄ではいかないのに、物語の結論や人生の決定は一つの選択肢しかない厳しさを物語に出てくる彼らは知っている。知っているからこそ、アシタカは「共に生きる」という選択をしたのだろう。彼はこの選択を他人に押し付けることはない。サンには会いに来てほしいのではなく、自ら「会いに行く」と明言し、彼女と文明社会を生きる人間の仲介役に進み出るようなことはない。アシタカがアシタカ自身の選択に他者を必要としないように、サンの人生の選択を阻むこともない。

 先程、対立が描かれているといったが、物語が進むにつれてモロやエボシ、ジコ帽らの信条が次第に激しくぶつかり合い、神殺しという非常に攻撃的な手段に帰結する。これは彼らが彼らなりの秩序、思想を他グループに暴力をもって主張し続けた結果ともとれる。この対立の構図はもののけ姫を見るにあたって非常に重要な視点であり、この視点から見ると明らかになることも多い。そしてこの構図の中に異質な人物が二人いる。

 言わずもがな、二人の少年少女、アシタカとサンである。

 サンはモロに「醜く、かわいい私の娘」と言われるように、獣にも人間にもなることができない存在、そしてアシタカはムラ社会から追放された「非人間」である。朝廷の影響力や技術力から恐らく室町時代中後期の日本が元になっていると思われるが、世界的に見てもこの時代は中世真っただ中。ムラや荘園から追放されることは死を意味した時代である。いわば罪人ともいえる少年と人間臭い獣の少女は大きな秩序同士(神・自然の世界と人間世界)がぶつかり合った時に初めて、居場所や運命が開けていく。アシタカとサンは自己に向き合えばそれだけ、多くの困難が待ち受けている。他の登場人物よりも大きな運命と責任を抱えているのだ。自由には責任が伴うと最初に言い始めたのは誰だったか、蛇足。

 この映画が私たちに教えてくれるのは映像や自然の美しさだけでなく、それぞれの運命を切り進むことの困難さ、意義深さであると私は思う。物語に登場する人物はそれぞれの信念を持っていて、しばしば大きな秩序よりも小さな秩序、つまり自分の信念を軸とした行動を優先する行動をとる。例えば牛使いの甲六は最終場面で山犬を自分の信念(この場合はアシタカを命の恩人と慕う心)をもって助けるし、ジコ帽だって一度心を通わせたアシタカに対して自らの剣をふるうことはない。そしてこれらの行動は物語全体のシナリオに重要なアクセントを与えている。
彼らがもし、「たたら場の人間」という顔の無い群衆の一人だったら、朝廷の駒のひとつに過ぎなかったら、物語の結末は全く味気ないものになっていただろう。大きな力に立ち向かうには勇気がいる、そんな不安と恐怖を、アシタカをはじめとする登場人物が少しだけとり払ってくれた気がするのだ。

アシタカとサンが成長し、共に生きていく姿を想像でしか補えないのがもどかしい。
西の森に赴いたら会えるだろうか?

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