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諦めることを諦めた

「戸嶋一貴(とじま かずき)」という奇跡を起こした正捕手がいた。3年間、一度も監督に褒められたことがない男だ。ただただ野球を楽しんでいた中学時代。突き抜けた能力は無い。オールBの能力で中学レベルなら野球が楽しめた。なぜ平安から誘いがあったかも未だにわからない。1番最初に声をかけてもらったのが平安だった。ただ漠然と甲子園に行きたくて、伝統もあって、家から近い平安に行くことに決めた。嬉しかったけど最初は断ろうと思ったらしい。「平安キツいからな。でも高校野球なんてどこもキツいよな。じゃあ平安でいいや。」戸嶋はとにかくマイペースに生きていた。

入学当初は平安の雰囲気に怯えていた。自信満々に入学してきたオラオラしてる同級生。常にピリついてる上級生。自分に自信のない戸嶋は「なんでこんなにみんなピリピリしてるんやろか?」と疑問を抱いていた。とにかくストレスを感じたくない人間だった。大きなハプニングを決して起こさないように、怒られないように、目立たないように常に身を潜めてシレっと日々を過ごしていた。マネージャーの僕でさえ、戸嶋の1年生の頃のイメージが浮かんでこない。当時は「とりあえず環境に慣れて、同級生と仲良くなろう」そう思いながら漠然と練習していた。そう考えているからか練習はキツいけど、ストレスは感じていなかった。本当にどこまでもマイペースだった。自分が試合に出るとか甲子園に行くとかそんなことを一切考えていなかった。

ただ、戸嶋はマイペースなだけじゃなかった。人柄は良いし、とにかく声は出すし、与えられたことは一生懸命にやる。足がとにかく遅くて動きは鈍いけど、キャッチングの巧さは上級生からも認められて、ブルペンに呼ばれるようになった。

そして3年生が引退して、1年生の秋になった。1年生のキャッチャーは3人いた。その3人が練習試合で順番にベンチに入るという仕組みになっていて、戸嶋はそれで初めてベンチに入った。そして試合前のノックで事件が起こる。戸嶋がこれまで一生懸命に避けてきたハプニングが起きた。ノックが始まってすぐに「声出さへんなら外れろ。いらん、お前は。」と原田監督に一撃でメンバーから外された。ここで戸嶋は気付いた。「自分をアピールするのが苦手」ということに。それはそうだ。逆に存在を消そうとヒッソリしていた人間にアピールなんてできるはずがない。さすがの戸嶋も落ち込んだ。
しかし転機が訪れる。上の学年の正捕手が試合で何度も同じミスを繰り返してしまい、試合に出れなくなった。そこで監督は試合で先発するピッチャーに自分でキャッチャーを決めさせるというルールを作った。そこで選ばれたキャッチャーが、ブルペン内においては評価の高い戸嶋だった。初めて試合に出ることになった。ノックで試合から外された経験があるから気合がすごく入っていた。その試合で攻守に渡ってとんでもない活躍を見せた。アピールに成功した戸嶋はノッてきた。
しかし、ここでハプニングを起こす。僕たちは野球部専用バスに乗ってグラウンドに向かう。バスの座席は下級生が上級生の隣に座ることになっていた。窓際に先輩が座るからだ。ある日、戸嶋は練習に向かうバスで寝ていた。暑くて大汗をかいて目が覚めたらしい。窓際付近の空調を見るとフタが閉じていた。窓際に座っているのは先輩だ。立って自分で開ければ済む話。しかし、何を血迷ったのか戸嶋は隣で寝ている先輩を起こして「空調のフタを開けてもらえますか?」とお願いした。暴挙だ。暴挙すぎる。当時は先輩にこんなことを言うなんて考えられなかった。ハプニングを嫌う戸嶋だからこそ余計に信じられないミス。しかし有難いことに戸嶋の隣に座っていた先輩は優しい人だった。「おう。」とフタを開けてくれた。戸嶋はお礼を言って「あー涼しいー。快適ー。」と思いながら引き続き寝たらしい。奇跡だ。そして昼休憩のときに先輩が全員いる部屋に戸嶋が呼ばれた。空調の件だ。「あいつ(先輩)優しい顔してチクっとるやんけ。バリ裏切るやん。」と思いながら先輩の前に立たされた。戸嶋、それはお前が悪い。ピリついた部屋。その雰囲気は耐え難いものだった。そこで、戸嶋を救おうとする優しい先輩が言った。「ここにいる全員を笑わせたら許したるわ。」これがラストチャンスだ。戸嶋は脳内の神経を研ぎ澄まして渾身の一発芸を披露した。それがどっかんどっかんウケた。無傷で僕たちの元へと帰還してきた。いや、むしろアピールに成功して全先輩に気に入られるという大きな収穫を持ち帰ってきた。逆境を見事に引っくり返して優位な立場に。戸嶋はこのような変なミラクルを何度も起こした。そして指導者を含めたチーム全体で「こいつ意外とおもろいやんけ!」というキャラに戸嶋は生まれ変わった。(今はこんなこと絶対にない。時代はとっくの昔に変わっている。)
試合でも結果を出して、キャラも認められて秋の大会でメンバー入り。大アピールに成功した。冬の練習では「お前がチーム引っ張れ。お前がこのチームのキャプテンやれ。」と監督に言われるようにもなった。もちろん先輩方への檄も込められていた言葉だが、「え、そんなに?笑」と単純な戸嶋はここで「おれがやらなあかん!」という自覚と責任が芽生えた。戸嶋はすごくわかりやすい。それから信じられないくらい練習中に声を出していた。これを「第一次戸嶋フィーバー」と呼ぶ。ノリにノッていた。

そして翌年の春の大会、戸嶋はガッチリと正捕手の座を掴んでいた。「自分が引っ張っていかないといけない」と意気込みすぎてガチガチに緊張していた。あり得ないくらい緊張していて視野が狭くなっていた。結果は府大会の一次予選で敗退。戸嶋は負けた試合に三振をした。ランナーが一塁で打席に立った。2ストライクに追い込まれた戸嶋。「行けたら行け(走者)」のサインが出てランナーが良いスタートを切った。戸嶋は打撃に自信が無くて弱気になっていたから「自分は打てないからヘタに打つより、ランナーが進塁したほうがいい」と思って、ど真ん中の球を見逃して三振をした。試合後になぜ振らなかったのかをコーチに聞かれた戸嶋はそのまま思っていたことを伝えた。すごくマイナスな思考を持って試合に臨んでいた。そんな弱気なやつは試合に出てはいけない。それが許されないのが平安だった。最悪の言い訳をした戸嶋はそれから試合に出れなくなった。当然落ち込んだ。そしてその間に先輩のキャッチャーは目の色を変えて練習を積み重ね、正捕手に返り咲いた。上級生の執念は凄かった。そして戸嶋はベンチに返り咲く。

そして新チームになった。自分の立場はどうであれ、旧チームからメンバーに入っていた戸嶋は「上級生らしく模範でいるべきだ」と気持ちを入れ替えた。もうこの時には漠然と毎日を過ごす戸嶋ではなかった。プレッシャーも感じていたし「正捕手にならないといけない」と考えることも増えた。試合に出だしたけど、もちろん簡単にうまくはいかない。ボロが出る。ボロが出るたびに怒られる。戸嶋はそれに耐えきれず、いっぱいいっぱいになって完全に潰れてしまった。平安の捕手はとにかく大変なポジションだ。求められることが非常に多い。だからこそ、この壁を乗り越えれば恐ろしいほど成長して卒業していく。ビデオで見た先輩の捕手たちはとても高校生と思えなかった。大人みたいでかっこいいのが平安の捕手だ。戸嶋は当時のことを「完全に死んだよな。」と表現している。秋の大会にもベンチこそ入ったが1試合も出ていない。何もできないまま冬の練習を迎えた。全員がタイムを切るまで終わらない「4321」という過酷なランニングメニューがあった。それが毎日あった。グラウンドの隅に4本のコーンを立てて、4周、3周、2周、1周と各周のタイムが決められる。そのタイムを全員が切らないと次の周に進めない。これが本当にキツかった。僕も怒られすぎて走らされたことがあるけど、人生でいちばんキツかった。でもこのメニューをみんなで励まし合って、とやかく言い合って乗り越えたから甲子園に行けたと僕は本気で思っている。質の高い練習じゃないと思う方もいるかもしれないが、意味はある。もちろんみんなやりたくないけど、それでも負けずに果敢に挑んでいた。そして戸嶋はこのメニューがとにかく苦手だった。もともと足が遅いし、体力も無い。だからタイムを切りたくても切れない。でも切らないと終わらない。走るのが速い選手から「お前まじで邪魔やねん」と責められることもあった。それが悔しくて毎朝、学校の前にある寺の周りやグラウンドを一生懸命走っていた。本当に毎日、毎日、朝早くに学校に来て走っていた。今思い出しても泣きそうになるくらい必死に。そして気付けば、戸嶋は普通にタイムを切れるようになっていた。できないと思っていたことに対して、できないまま終わらせるんじゃなく、できるようになるまで精一杯に努力を積み重ねた。「頑張ったら絶対に何でもできる」と戸嶋はこの冬にものすごい自信を付けた。次第に「やらないといけない」から「やる!」に変わっていった。

そして冬が明け、春の沖縄遠征を迎えた。この沖縄遠征は誰にとってもターニングポイントになる貴重な1週間だ。チームはAとBに別れる。Aが1軍でBが2軍という感覚だ。戸嶋は本当に冬の練習を頑張っていたから、当然Aだと思った。しかし、Bのメンバーとして名前を呼ばれた。戸嶋は「めちゃくちゃ焦ったよ。もう何してもあかんのかなと思った。」と振り返る。ただ、この沖縄遠征でBチームに選ばれたことが戸嶋を大きく成長させた。戸嶋は冬の間、ただ走っていただけじゃない。ウエイトトレーニングもしていたし、バットもかなり振っていた。沖縄での1試合目の1打席目の初球、逆方向にホームランを打った。打撃も伸びていることを実感した。人生初のホームランだった。そして守備の面でも成長した。Aにいる投手に比べてBの投手は能力が劣る。ストライクが入るか入らないかのレベルのピッチャーもいた。そういう投手に対して、どうすればストライクが入るのか。どこに構えてあげたら良いのか。どうやってバッターのタイミングをズラすか。あらゆる工夫をして試合に勝つために頭をフル回転。それで結果を出した。「試合に勝つことも負けることもすべてキャッチャーの責任」と最も大切なことを体感した。そしてキャッチャーとしての自信を付けた。
そして沖縄遠征が終わり、大阪桐蔭との練習試合が組まれていた。自信を付けた戸嶋は監督に「メンバーに入れてください」と直談判しに行った。監督はそれを認めた。いきなり試合に出ることはもちろん無い。ブルペンに入った。

ご覧の通り、ボッコボコに打たれた。監督は「戸嶋、お前の責任でもあるぞ。ブルペンで何してんねん。出てくるピッチャー全員あかんやんけ。ちゃんと仕上げさせとけよ。外れとけ。」とベンチから出された。自分からメンバーに入らせてほしいと言ったのに、外れろと監督に言われて何も言わずに外れていった。戸嶋には反骨心みたいなものがまるで無かったし、監督から逃げようとしていた。「また怒られた…」と落ち込むようになって、この頃から監督に完全に無視されるようになった。まったく相手にされなくなって戸嶋はここで試合に出ることを諦めた。ただ、おもしろいことに沖縄遠征であまりにも打ちまくっていた戸嶋は打撃の実績という残高がそこそこ残っていて、代打枠として春の大会もベンチには入っていた。何より、監督は戸嶋を完全に見切ったのではなく、戸嶋の反骨心や意地を試していた。なぜなら戸嶋は嫌われる人間じゃないからだ。戸嶋はみんなから愛されている。不器用で鈍クサいけど良いやつだ。春の大会は背番号が18だった。「うわ、おれエースやん。」と思ったらしい。いつまでもふざけるな、戸嶋よ。目を覚ましてくれ。

諦めていた戸嶋にもここで転機が訪れる。春の大会は準々決勝まで勝ち上がった。福知山成美戦の前日のことだった。コーチとして毎週グラウンドに来てくださったOBの村岡拓さん(1997年・夏の甲子園準優勝のセカンド)にキャッチボール中、突然声をかけられた。

村岡さん「お前、試合出たいんか?」
戸嶋「出たいです!(諦めてますが)」
村岡さん「捕手で出たいんか?」
戸嶋「捕手で出たいです!(諦めてますが)」
村岡さん「無理やろ。」
戸嶋「いいえ!(そうです、無理です)」
村岡さん「他に出れるとこ考えてみ?」

戸嶋は考えてみた。

捕手・高橋(現・広島カープ) 戸嶋の判断→不可能
一塁・久保田(現・日本新薬)→不可能
二遊間は誰が見てもハナから戸嶋には不可能
レフト・小嶋(主将)→不可能
センター・井澤(現・日本新薬)→不可能
ライト・太田(元・日本生命)→不可能
三塁・前本(元・滋賀ユナイテッド)→無理

出れるところを考えたけど無かった。
しかし村岡さんは「サード出れるやろ。」と言う。戸嶋からすれば無理だけど村岡さんから見ればサードなら出れると判断した。サードの前本は実力のある2年生。自分にも人にも優しい人間だった。そこが狙い目だった。村岡さんは平安の歴史に残る最強のセカンド。自分に優しい人間が平安のレギュラーとして試合に出ているのが嫌だったらしい。それだったら打撃もそこそこ良くて上級生の戸嶋の方がまだ責任感があると思って村岡さんは声をかけた。「おい、誰かに内野手用のグローブ借りてサブグラウンドに来い。サードの練習や。」そう言われた戸嶋は前本から余ってるグローブを借りてサブグラウンドに向かった。戸嶋よ、借りる相手をもっと考えろ。馬鹿なのか君は。
そして、サード・戸嶋の高校野球が始まった。3年の春の大会途中。練習したからと言って夏に試合に出れるほど平安の内野は甘くない。サブグラウンドで村岡さんのノックを受けた。誰でも捕れるようなユルユルの打球。そのノックを受けて一塁に送球するという練習をひたすら繰り返した。すると村岡さんに「イケるやんけ!ちょっと速い打球いくぞ!」と、さっきよりすこ~しだけ速い打球を打つ。またそれを捕って一塁に送球。「イケる、イケる!」と村岡さんは言う。戸嶋はその言葉に「え?イケんの?(笑)」とノった。戸嶋は単純だからノリにノッた。諦めていた戸嶋が復活した。村岡さんは「三塁線の速い打球は捕手のときみたいに身体で止めてすぐに一塁投げたらアウトやから!それでイケる!」と言うと、戸嶋は「それでええの?イケるやん(笑)」とさらにノッた。「よっしゃ、これで明日イケるな!『明日サードで試合出してください』って監督に言うてこい!」と言われたノリにノッてる戸嶋は少し怯えながら監督に言いに行った。監督には「なんや?無理に決まってるやんけ。勝手にせえ。」と言われた。それはそうだ。無理に決まってる。結局、福知山成美との試合に出ることはなかったけど、春の大会以降はサードでノックを受けて、気付けば練習試合にサードで出るようになった。試合に出るのを諦めていた戸嶋が試合に出るようになった。とにかく誰よりも声を出して、時にはアウトカウントを間違えるというとんでもないミスもしながら、それでもヘタクソなりに一生懸命に守っていた。必死さがとにかく伝わってくる。監督からの信頼も徐々に取り返した。戸嶋の「なんとかしたい!」という気持ちが伝わっていたんだと思う。
戸嶋がサードに入ってから、確実にチームに活気が生まれたことをハッキリと覚えている。プレー云々の前に、戸嶋は上級生らしかった。それも大きかったと思う。夏の大会前にチームにとって嬉しいハプニングを戸嶋が起こした。これを「第二次戸嶋フィーバー」と呼ぶ。行け、戸嶋。

しかし、戸嶋は「サードの景色から見るキャッチャーと、キャッチャーの景色から見るサードはまったく別物やった。『ここはタイムや』とか『ここはこの球や』とか。とにかくサードを守りながら、キャッチャーのことばっかり考えてたな。また違う視点でキャッチャーを見れたのはめちゃくちゃ勉強になったし、視野が広がった。もともとキャッチャーの時、バックホームを捕るのが苦手で。でもサードやってから足動かすようになった。そのおかげでフットワークも良くなってバックホームが捕れるようになったし。サードの経験がキャッチャーに戻った時にすごくプラスになった。」と当時を振り返る。夏の大会直前のことだった。理由は当時の正捕手・高橋が、かつての戸嶋のような状況に苦しんでいた。たくさん怒られていっぱいいっぱいになっていて、髙橋は捕手から逃げたくなっていた。試合後にスコアを見ながら髙橋なりに勉強していたが、なかなかうまくいかない。2年生にしては荷が重たかった。そして、戸嶋がキャッチャーに戻ることになった。
それからは本当に逞しかった。戸嶋自身も「サードからキャッチャーに戻ったときは別世界やったな。今までとまったく違う感覚で守ることができた。野手の気持ちとか、投手に対してとか、ちょっとのことかもしれないけど野球観が広がってる感じがして。自信を持ってプレーできた。」と胸を張った。監督は戸嶋を褒めはしなかったけど、怒らなくなっていたし、戸嶋の意見や考えを聞くようになっていた。スコアを書きながら隣でふたりが会話をしているのを見ると僕は嬉しい気持ちになった。
試合に出ることを諦めた戸嶋が完全に復活した。
すべては村岡さんの一言から始まったことだ。
「あの時、村岡さんの一言がなかったら今の自分は絶対にいない。諦めてどん底にいたところから頑張れるキッカケをくれた。今の人生でも活きてる。何かがうまくいかない時も『次どうすればいいか、他に方法はないか。』を考えれるようになった。感謝しても感謝しきれない。」
戸嶋は村岡さんに感謝している。卒業後もふたりの親交は深まり、よくゴルフにも行っている。僕はInstagramでアップされるその写真を見るたびに、すごく幸せな気持ちになる。下の写真は村岡さんと戸嶋だ。この写真が戸嶋から送られてきた時、泣きそうになった。この話を書くために撮られていたかのような写真だ。

そして夏の大会のメンバー発表の日が来た。背番号は2桁の「12」だった。「『2』で呼ばれると思い込んでた。だから名前が呼ばれなかったとき死ぬほど悔しい気持ちやった。これは完全に個人的な思いやけど、絶対にこのまま終わりたくなかったし、絶対に甲子園に行って『2』を付けてやろうと思った。それでめちゃくちゃ気合が入った。」と当時を振り返る。ただ、監督は『2』を戸嶋に与えなかったことに大きな意図があると感じた。先日、書いたエース・太田と同様に準決勝、決勝までキャッチャー戸嶋も隠した。「太田‐戸嶋バッテリー」を隠していた。相手からすれば困る。配球の傾向が読めないから。そして意図はもうひとつあったように思う。背番号『2』の2年生・髙橋は間違いなくプロに行く逸材だったし、次の代のことも考えてキャッチャーとしての経験を積ませるという意図もあったはず。(実際にドラ1で広島に。外野手として。)
そして最後の夏が始まった。戸嶋は1回戦、2回戦はベンチ。3回戦から「準決勝からいきなり試合に出て緊張せんように慣らしとこか」と監督に声をかけられサードで試合に出場。戸嶋には「背番号『2』を甲子園で付ける!」という目標がある。だから臆することなく大暴れした。その試合も、次の試合も、その次の試合も打ちまくっていた。先に言う。この予選での戸嶋の大会打率は4割を超えていた。準決勝は1番・捕手としてスタメン出場。これを「第三次戸嶋フィーバー」と呼ぶ。戸嶋が1番を打つなんて全人類が考えられないサプライズ。平安スタンドは大いに沸いた。もう戸嶋の勢いを止めることはできなかった。ノリにノッていた。調子に乗っているんじゃない、前向きに本気で野球を楽しんでいた。いいぞ、戸嶋。

そして福知山成美との試合に見事、勝利した。春の大会で負けた雪辱を見事に晴らした。本当に怖い相手だった。現DeNAの桑原が打席に立ってるときはフェンスの前に外野手が張り付いていた。でも戸嶋は堂々と太田をリードして、太田も戸嶋のミットめがけて一生懸命に腕を振った。野手陣も終始、一丸となって攻め立てた。髙橋の2打席連続の本塁打は一生忘れないだろう。あんな打球は高校野球で見たことがない。かっこいい4番だった。上級生と下級生が手を取り合って作ってきたチーム。まさにその真骨頂が出た試合だった。
「メンバー外の選手が暑いなか偵察に行ってくれたし、春のデータもまとめてくれていた。データをたくさん揃えてくれてたから、自分で研究する時もすごくやりやすかった。データをしてくれてた人たちの力はすごい大きかったな。練習から常に太田と成美打線をイメージしてブルペンに入ってた。実際、対戦したら打球方向、苦手なコース、振ってくる球、仕掛けてくるカウント、何から何までデータ通り。それにプラスして太田の状態を考えて試合中に手探りをしながら組み立てた配球もビタビタにハマって。春も負けてるし、打力のあるチームやから気を抜くことは絶対になかったけど、まったく怖くなかった。こんな公式戦、野球人生でこの試合しかない。一生に一度。」と戸嶋はこの準決勝が楽しくて仕方がなかったと振り返る。チームのためにデータ収集を夜遅くまでやってくれた選手と、試合に出る選手が一致団結してオール平安で掴んだ勝利。試合に出るたびにオドオドしていた戸嶋を強くしたのは戸嶋だけの力じゃない。みんなの力だ。愛される戸嶋だから、みんなが背中を押した。戸嶋はそれを今でも実感している。だからこそ、グラウンドで堂々と戦えた。

そして、翌日の決勝。僕たちは優勝した。正直、準決勝のイメージが強すぎて決勝のことは優勝の瞬間以外、ほとんど覚えていない。
「もう試合に出るのは無理。諦めた。」と感じていた戸嶋が優勝の瞬間をホームベースで迎えた。すごく嬉しい瞬間だったと思う。戸嶋に当時の気持ちを聞いてみた。「イライラしてた。田村(当時の投手)が要求したコースと全然違う球を投げてきて。荒れてたし、舞い上がってるし。最終回に2死から無駄なランナーを連続で出して。それにめちゃくちゃイライラしてたからそんなに嬉しくなかった。あとで絶対ちゃんと言わなあかんと思った。」と振り返る。僕が思ってるよりも随分と立派なキャッチャーになっていた。

そんなイライラしてた戸嶋にはもっと嬉しい瞬間が待っていた。甲子園のメンバー発表の日。背番号「2」のユニフォームが監督から戸嶋に手渡された。何も考えず、ただ漠然とヒッソリと日々を過ごして、頑張っては落ち込みを繰り返し、挙句の果てには試合に出ることを諦めた。そんな戸嶋が最後の最後で「2番を付けて甲子園に出る」という自分の目標を達成した。僕は嬉しかった。戸嶋はもっと嬉しかったと思う。諦めることを諦めて、自分自身に最大のハプニングを起こした戸嶋の姿は本当にかっこよかった。

甲子園は初戦敗退だった。戸嶋も予選の時よりバタバタしていた。舞い上がっていたのかもしれない。最後の最後までハプニングを起こした。「伝説の誤審」が生まれた。否定はしない。誰がどう見ても大誤審だった。そんな誤審を引き起こす打球を放ったのも戸嶋だった。当時は納得いかなかったけど、今なら納得できる。戸嶋だったら仕方がない。そしてこのチームは戸嶋を筆頭にサプライズやハプニングを起こす人がたくさんいた。監督や先生方は大変だったと思う。でも監督も森村先生も言う。「お前らヘタクソやったけど一生懸命、頑張ってたぞ。楽しかったな。」と。それが僕たちにとって何よりも嬉しい言葉だ。

そして戸嶋の高校野球が終わった。
戸嶋は最後の最後まで監督に褒められることは無かった。
監督には「最後まで、お前はお前やったな。」そう言われた。
最後くらいは褒めてほしいと戸嶋は思ったが、同時に納得もした。
「ここで最後に褒められてたら、おれは確実に調子に乗ってたし、大学でも野球を頑張ってなかったと思う。予選の時もそう。あそこで背番号『2』を監督から渡されてたら絶対にあんなに活躍できてない。そこで満足してたと思う。おれが単純で舞い上がりやすい人間っていうことを監督はよく知ってたから。それはハッキリわかる。だからそれで良かった。」そう振り返ると、続けて監督について話してくれた。「視野の広さがとんでもなかった。『長い間、細部までこだわりを持ってやってきた人だから言えることだろうな』と思うことがたくさんあった。だから何を言われても納得いくし、頑張ろうと思えた。たまに練習試合とかで監督が配球を組み立てる日があった。キャッチャーからしたらそれほど屈辱的なことは無い。だから『このサイン打たれろ!』と思いながら試合に出てた。でもその通りにすると絶対に抑えられる。あんなに観察力、分析力に長けてる人は見たことがない。技術はもちろん教わったけど、それよりも『知識や情報の入れ方』を教えるのがめちゃくちゃ上手なのが監督だった。大学野球に入ったときに、平安で教えてもらってることのレベルの高さをものすごく感じた。すごいよ、ほんまに。」と、熱く語ってくれた。
そして戸嶋は監督に褒められることなんかちっぽけに思えるほど、監督に信頼されている。「今の子らに教えたってくれへんか?」と、昨年の冬ごろから監督に直々に声をかけられ、週に1日、平安のコーチをしている。監督に必要とされて。かつて村岡さんが教えに来てくれていたように。何よりの信頼の証だ。戸嶋はそれだけの実績を積み重ねてきた。そんな戸嶋を僕は心から尊敬している。すごいぞ、戸嶋。
諦めたからわかること、諦めなかったからわかること。その両方が戸嶋にはある。ひとりじゃ頑張れなくても、他人からもらうヒントで頑張れたこともある。失敗も成功も両方知っている人間は多くの人の気持ちに寄り添える。戸嶋はそれができる人間だと僕は強く信じている。人間はみんな完璧じゃない。何度でもその気になれば失敗してもやり直せる。だから諦めることを諦めてほしい。僕は戸嶋に大切なことを教わった。
「おれは平安に行って良かったと言い切れる。100点。ここで教わったことは人生の力になる。自信になる。平安OBであることが重荷になることもあるけど、それがあるから一生懸命になって頑張れる。野球で教わったことは確実に野球が終わってからの人生に繋がる。だから監督も『人生に野球の心を』って言い続けてるんやと思う。それを知ってるから教えれることもあると思ってて。野球のことはもちろんやけど、そういう大切な部分を自分の経験を交えながら、今の子たちにわかりやすく伝えていきたい。」
平安で生まれ変わった戸嶋は、家業を立派に継ぐために、日々、仕事と勉強に励みながら、平安に帰って受けた恩を次の世代に繋いでいく。
もう、諦める戸嶋はどこにもいない。


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