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口の立つやつが勝つってことでいいのか!

連載開始のご挨拶

週1(金曜夜更新)でエッセイを書いていこうと思っています。
マガジンを作って、そこに入れていきます。
マガジンの名前は「何を見ても何かを思い出す」にしました。
ヘミングウェイの短編のタイトルで、高見浩さんの訳です。
このタイトルを見たとき、「ああ、自分が文学を好きな理由はこれだな」と思いました(中身を読んだら、ぜんぜんちがう話でした。なので、好きなのはタイトルだけです)。
自分が感じた「何を見ても何かを思い出す」を、ここで書いていけたらと思っています。

その第1回です。

 小学生のとき、私は口が立つ子どもだった。
 十一歳上の兄と六歳上の姉がいたせいかもしれない。
 年上としゃべっていると、そちらにひっぱられるから。

 当時もう学校は「暴力はダメ、話し合いで」というふうになっていた。
 だから、とっくみあいのケンカなんかしていると、先生が割って入って、「手を出しちゃダメ! 口で言いなさい」と両者を分けて、「さあ、何があったのか、ちゃんと話してごらんなさい。先生が判断してあげるから」と、それぞれの言い分を、ひとりずつちゃんと聞いてくれる。

 そういうとき、私は口が立つから、これこれこうで、相手がよくなくて、自分が正しいということを主張する。
 先生もなるほどという顔をして、「じゃあ、今度はあなた」と、もう一方の子の話を聞こうとする。

 ところが、相手はうまく説明できないのだ。
 言いたいことはあるのだが、切れ切れになったり、「でも、あの」とか、やたら入ったり、要領を得ない。
 先生は、ははーんという顔をする。ちゃんと説明できないところを見ると、こっちの子のほうに非があるんだなと思ってしまうわけだ。

 私のほうが正しいことになって、先生が相手の子に「頭木くんにあやまりなさい」と判決を下す。
 すると、驚いたことに、相手の子は「ごめんなさい」とあやまるのだ! しゅんとして、うなだれるのだ。

 いつもそうだった。私は勝ってばかりいた。

 これはひどい! と思った。
 これじゃあ、腕力が強いほうが勝つのと何にも変わらないじゃないか。
 口の立つほうが勝つだけだ。
 こんな理不尽なことでいいのかと思った。

 私は自分が勝っているほうだから、自分のインチキがよくわかっている。
 口が立てば、自分のほうに非があったって、いくらでもうまいこと言いくるめられるのだ。

 相手はさぞくやしいだろうと思った。
 それなのに、なぜあやまることができるか、不思議だった。
 もどかしい気さえした。
 なぜ敗北を認めて、自分のほうに非があったような態度をとるのか。
「そうじゃないんだ! こいつはうまいこと言っているだけだ!」と、なぜ叫ばないのかと思った。

 とっくみあいのケンカになるような場合には──もちろん、単純な理由のこともあるが──もやもやした言葉にならない思いがたくさんある。
 たとえば、親の悪口を言われてケンカになったとして、それぞれの子の親との関係が深く関わっていたりする。

 もやもやした思いを、言語化するのは難しい。言語化できない思いもある。
 それなのに、話し合いで解決しようとすると、言語化できることだけでの解決になってしまう。

 しかも、言葉というのは手品を仕込むことができるから、手品のうまいほうが勝ちになってしまう。
 種も仕掛けもあるのだが、なかなか気がつけないし、指摘しても、手品のあざやかさのほうが人気があり、ネタばらしはかえって非難されたりする。

 話し合いで解決というのは、とんでもないな、というのが小学生のときの印象だ。

 そのときから、「うまく言えない」ということが気になるようになった。
 うまく言えないことの中にこそ、真実があると感じるようになった。うまくしゃべれない人に、とても魅力を感じるようになった。

 そうしたら、自分が二十歳で難病になって、言語化できない、どう説明しても人にはなかなかわかってもらえないことを、山ほど経験することになった。説明できないことは、沈黙するしかないということも、いやというほどよくわかってしまった。やっぱり私も、ただうなだれていた。

 言葉にできる思いなんて、本当にごくわずかで、まさに氷山の一角、千重ちえ一重ひとえ、あんこうの提灯で、それだけで判断しては、ちがってしまう。「この人の中には、もっと言葉にできない思いがいっぱいあるはずだ」という気持ちで相手に接する必要があると思う。

 話し合いで解決はよくないから、暴力に戻そうと言っているわけでは、もちろんない。
「暴力はダメ、話し合いで」というのは基本的には正しいと思う。極端化して、「戦争はよくない、外交で解決を」というふうにしてみると、その正しさがよくわかる。

 ただ、「話し合いなら、ちゃんとした解決だ」と思うのは、ちょっとちがうということだ。なにしろ、言語化できないことがあるのだから。
 そして、言葉にできることでさえ、それをもとにきちんと論理的に議論することは、人間には難しい。それをやるには、数学くらい、純度の高い言語を使う必要があるだろう。日常の言語では、論理はすぐにおかしくなる。むしろ、口が立つ人というのは、論理をねじ曲げるのがうまい人なのだ。
 きちんと厳密に議論するはずの裁判でさえ、高い弁護士を雇えたほうが勝ったりすることを見ても、それは明らかだろう。

 というこのエッセイも、なんだか議論っぽくなってしまった。
 今後のエッセイでは、言葉にできないことについて、できるだけ語ってみたいと思っている(矛盾しているので、うまくいくかどうかわからないが)。
 今回は、なぜそんなことを書こうとするのか、ということをまず書いてみた次第だ。

 うまく言葉にできないせいで、口の立つやつにひどい目にあわされて、くやしい思いをした人は少なくないと思う。
 自分も口の立つほうだったひとりとして、お詫びしたいと思う。
 思いをうまく言葉にできないほうが、当然なのだ。本当なのだ。そこにごまかしがないということだ。

 倉本聰の『前略おふくろ様』という昔の有名なテレビドラマをDVDで見たとき、主人公のサブちゃんがやたらと、

 うまく言えないっす

 と言う。
 それで、相手にうまく気持ちが伝わらなくて、怒らせたり、悲しませたり、誤解されたりする。
 見ていると、いらいらして、「もっとちゃんと説明しろよ」と思ってしまう。
 でも、そこで無理に言葉にして、うまいことやってしまう人より、やっぱりずっと魅力的だと思うのだ。



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