見出し画像

「感謝がたりない」は、なぜこわいのか?

 エッセイ連載の第8回目です。
(連載は「何を見ても何かを思い出す」というマガジンにまとめてあります)

 Twitterで、次のようなツイートをしたところ、

 140文字では、わかってもらえないだろうなあと思っていたのですが、意外に反響がありました。
 それだけ、感謝の取り立てに苦しんだことのある人が多いということなのでしょう……。

 一方、フォロワーさんも減ったから、やっぱり「感謝するのが当然。しないのを非難して、何がいけない」と思う人も多いのでしょう。

 よくわからないという声もあり、それはもっともだと思うので、あらためて長く書いてみました。
 よろしかったら、お読みになってみてください。

(いつもは金曜の夜の更新ですが、そういう次第で、少し早く、木曜日のお昼にアップしました)

美しいやりとり

 人に親切にしてもらったら、きちんとお礼を言いましょう。
 長い間、この教えに疑問を持ったことはなかった。

 AがBに親切にする。BがAに「ありがとうございます」と感謝の気持ちを表す。それをAが「いいんだよ」と笑顔で受けとめる。
 これほど美しいやりとりはないと思っていた。
 今だって、美しいと思う。
 親切にされたほうは、「ああいう親切な人も世の中にいる」ということが、生きていく上での支えになるかもしれない。
 親切したほうも、そういうときの「ありがとうございます」のひと言と相手の嬉しそうな顔が、ずっと心にあたためてくれるかもしれない。

美しいやりとりが、こわいやりとりに

 ただこれが、「親切にしてもらったのに、きちんとお礼を言わないのはよくない」という言い方になってくると、ちょっとこわくなってくる。
 さらに、「きちんとお礼を言わない人には、親切にする必要はない」とまでエスカレートしてくると、かなりこわい。
 どうこわいのかというと、たとえば、難民キャンプにボランティアに行って、

感謝の言葉をちゃんと言えない子には、食べ物をあげない。

 とツイートしている人がいた。
 美しいやりとりのはずが、すごくこわいやりとりになってしまっている。

死んだのは自業自得

 アニメ映画『火垂るの墓』では、戦争で両親を亡くし、家も失って、戦災孤児となった、14歳の兄と4歳の妹が、親戚の家の世話になる。
 その兄について、最近、

お礼を言ったり感謝したりするシーンがない。

 ということをツイートした人がいて、大きな話題になった。
 兄妹はけっきょく家を出て、栄養失調で死んでしまう。
 そのことについて、このツイートへのリプライで、

あの二人が死んだのは自業自得

お礼もできないんじゃ誰も助けてくれなくて当然

 というようなことを書き込んでいる人がたくさんいた。
 2人が死んでしまったことを、悲しんでおらず、むしろ溜飲を下げている。

エスカレートが起きてしまう

「こういう人たちは、ひどい人たちだ」と別枠にしてすむ話ではないと思う。
 難民キャンプにボランティアに行った人は、ともかくボランティアに行くという素晴らしい行動をとっているのだ。行かずにごちゃごちゃ言っている私なんかより、はるかに立派な人だ。
 問題は、そんな立派な人の心の中でも、こういうエスカレートが起きてしまうということだ。

 ボランティアをしたり、人に親切にしようとするとき、最初は、相手へのやさしい気持ちがある。目の前で困っていたら、助けてあげたいという、人間の自然な気持ちだ。目の前で誰かが転けたら、反射的に手をさしのべてしまう。それが人間というもので、人間の美しい心だ。
 ところが、その相手がお礼を言わなかったり、感謝の気持ちを示さなかったりすると、不快を感じてしまう。
 そして、その不快のせいで、「こんな人はひどいめにあえばいい」と思ってしまう。助けようとしたはずの相手に、逆に攻撃的になってしまう。
 そして、実際にひどいめにあうと、「自業自得だ」と溜飲を下げる。
 美しいことが、なぜか自然な流れで、ホラーになってしまうのだ。

「ありがとうは?」というホラー

 実際、『ありがとうは?』というようなタイトルで、ホラー映画を作ることも可能だと思う。
 主人公は、ある困った状況に陥っている。
 親切な人がそれを助けてくれる。
 主人公は大喜びし、とても感謝する。
 しかし、それで終わらなかった。
 相手はいつまでも感謝を求める。主人公も、一生の恩だと思っているし、深く感謝しているから、できるだけ感謝を示しつづけようと努力する。
 しかし、どう感謝をしても、「感謝がたりない」と、さらに求められてしまう。何か恩返しを求められるわけではない。それなら何でもするのに。そうではなく、感謝の「気持ち」を求められる。しかし、あんまり求められつづけると、水を汲みすぎた井戸のように感情が涸れてきてしまう。感謝の気持ちだけでなく、あらゆる感情まで失われていく。感謝疲れを起こし、さらに、ひからびて、すっからかんになる。しかし、そうするとと、ますます感謝の気持ちがたりないと言われてしまう。悪循環だ。
 このつらさは、経験していない人にはなかなかわからないだろう。逆に、経験のある人なら、泣いて共感するだろう。
 お金を借りるのに近いかもしれない。お金がなくて困っているときに、むこうから「どうぞ」とお金を貸してくれる。そりゃあ嬉しい。助かる。ちゃんと返すつもりだ。ところが、「感謝」という利息の取り立てが始まる。この感謝の借金取りの取り立てが厳しい。しかも利息がどんどん増えていく。利息だけでも返しきれなくなっていく。催促に疲れ、感謝どころではなくなってしまう。
 主人公は「感謝がたりない」という言葉を聞いただけで、パニックを起こすようになる。
 ついに遠くに逃げ出す。たとえ恩知らずとののしられようと、もう逃げるしか生きる道はない。
 しかし、ラストシーン、ようやく落ち着ついた生活を取り戻しつつあった主人公のアパートのチャイムが鳴る。
 ガチャリとドアを開けると、そこにはあの親切な人が立っていて、にっこり微笑む。
「ありがとうは?」

 キャーッ! かなりこわくないだろうか?
 くだらない作り話と思うかもしれないが、こういう実話は、じつはたくさんあるのだ。
 だからこそ、私が「『感謝がたりない』というような言葉を聞くと、本当に許せない気持ちになる」とツイートしたとき、リツイートといいねを合わせて6千以上の反響があったのだ。「感謝がたりない」に苦しめられたことのある人は、決して少なくないということだ。

見返りを求めないことは可能か?

 では、いったいどうしたらいいのか?
 人に親切にするとき、見返りを求めるべきではないという人がいる。
 これはとても立派な意見だが、現実に可能だろうか?

 人にちょっと親切にしてあげた場合のことを、なるべくリアルに思い浮かべてみよう。
 たとえば、電車の中で、席をゆずってあげた。
 その相手が、何も言わず、ニコリともせずに座って、そのままだったらとしたら、どう思うだろう?
(なんだよ、こいつ。お礼くらい言えよ。せめて笑顔くらい向けるべきだろ)と思ってしまわないだろうか。
 そして、不愉快な気持ちになって、相手に腹を立ててしまわないだろうか。
(せっかくやさしい気持ちだったのに、こいつのせいで、すっかり不愉快な気分になってしまった)と、そのことにも腹が立つかもしれない。

 あと、こちらの親切に対して、最初はお礼を言っていた人が、だんだんあたりまえのような感じになっていくと、やっぱり不愉快に思うかもしれない。
 これもTwitterで教えてもらったが、よしながふみの『きのう何食べた?』第8巻の第57話に、こういうセリフがある。

人間っちゅーのはねえ
たとえ初めは
見返りはいらないって
100%好意でやってる事でも
相手がそれを当然のよーに
何の感謝もせずに
受け取るようになったら
やっぱり不愉快なもんなの!

 ほとんどの人が、それはそうだと思うのではないだろうか。

 こうした気持ちを、まったく持たずに、ただ人に親切にするというのは、それこそ仏道の修行でもした人でもない限り、無理ではないかと思う。
「親切は、見返りを期待せずにすべき」とは言うものの、それは理想論で、ほとんどの人は、こうした気持ちを持つだろうし、それが自然だと思う。
 そして、それほど問題のあることではない。

 問題は、こういう気持ちは、だんだんエスカレートしていってしまいやすいということだ。ちょっとした不愉快だったはずなのに、いつの間にか、モンスターになってしまう。
 では、そうならないよう、つねに気をつけているしかないのか?
 小さなくすぶりが、大きな火事にならないよう、見守るように……。

 ずっとそう思っていたのだが,じつはそうではなかった!

感謝が必要ない親切な世界

 私は、お礼を言わない世界を体験したのだ。
 しかも、それがまったく不愉快ではなかった。
 不愉快でなかったどころか、そのほうがずっとよかった。
 お礼を言い合う世界より、ずっと美しいと思った。
『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』(奥野克巳 亜紀書房)という本があるが、私はこの著者のようにボルネオ島まで行ったわけではない。
 日本国内の話だ。

 初めて宮古島に行ったとき、飛行場に着いて、さあ荷物棚から手荷物を降ろそうというとき、私は少し離れた棚に荷物を入れていたので、通路から人がいなくなるまで、手が届かなかった。
 なので、ただぼうっと立って待っていたのだが、そうすると見知らぬ男が、私の荷物をがしっとつかんだ。
 荷物をとってくれる気なら、こちらに笑顔を向けたり、なんらかのサインを送るだろう。しかし、その男は無表情だし、こちらを見てもいない。まさか、目の前で盗む気なのか? その男はとてもたくましかった。こっちはひょろひょろだ。それで強奪しようということなのか?
 ところが、男は私の前まで来ると、その荷物を無造作に渡して、そのままさっさと飛行機を降りて行った。
 私はしばらく茫然としてしまった。今のは、親切に荷物を取ってくれたということなのだろうか? それにしては、ニコリともしないし、なんとも無造作だし、さっさと去って行ったのも「名乗るほどの者ではないので」というような照れとも思えない。

 その後、宮古島に移住して、だんだんわかってきたが、むこうでは親切にするのがあたりまえなのだ。だから、いちいちお礼を言う必要はない。あたりまえのこととして、なんでもなく親切にし、なんでもなく親切を受ける。だから、その男の人も無表情で、そのまま去って行ったのだ。
 お礼を言わなかったと私は気になったのだが、そんなことを気にする必要はまったくなかったのだ。

 宮古島ではお年寄りを大切にするから、お年寄りへの親切はとくに当然のことで、お年寄りもいちいちお礼は言わない。当然のこととして親切を受け入れる。そうすると、ものたりなく思ったり、不快に思ったりするかというと、ぜんぜんそんなことはないのだ。
 親切にするのがあたりまえで、お礼も言わないのがあたりまえだから、かえってどんどん親切にできる。相手が恐縮しないからだ。
 自分も平気で親切を受け入れられるようになっている。「人の世話になるのは申し訳ない」というような、精神的な負担を感じなくてすむからだ。
 これは本当に素晴らしいと思った。これこそ、本当に美しいと。

久しぶりの東京の電車で

 久しぶりに東京に戻ったとき、羽田から自宅に向かう電車の中で、私はすでにとても違和感をおぼえていた。
 あちこちで、「すみません」とか「ありがとうございます」とか言っているのだ。
(東京はこんなだったっけ?)と私は不思議に思ったほどだ。前はごく普通のことで気にもとめていなかったのだろうが、宮古島になれた身には、すごく変な文化に思えた。

 私もお年寄りに席をゆずった。するとお年寄りは、笑顔を向けてお礼を言って座り、座ってからまたお礼を言って頭を下げ、降りる駅で立ち上がるときにまたお礼を言い、さらにお礼を言って降りて行った。
 親切にして、相手がお礼を言ってくれて、美しいやりとりだ、と私は感じただろうか?
 いや、まったくそうは感じなかった。なんでこんなに何度もお礼を言わなければならないのか、無惨に感じた。
 親切にするのがあたりまえで、お礼を言うこともなく、お礼を言われたいと思うことないほうが、はるかに美しく、なにより気持ちがいい。

エスカレートしない

 そして、「親切にするのがあたりまえで、感謝が必要ない」という状況の場合、エスカレートするということがない。
 ボランティアに行って「感謝する子にはあげない」と言い出すようなことはありえない。
「感謝するような人間は、ひどいめにあって当然」と思うようになったりしない。
「もっと感謝しないように」と責め立てることもありえない。
 怪物の育ちようがないのだ。

そういう世界もありうる、ということを

 日本中に「親切にするのがあたりまえで、感謝は必要ない」というルールを広めるのは難しいかもしれない。
 しかし、そういう世界もありうるし、そのほうが快適に生きていけるということは、心のどこかで知っておいてほしいと思う。




もしおもしろいと思っていただけたらお願いいたします。 励みになりますので。 でも、くれぐれも、ご無理はなさらないでください。 無料掲載ですから。