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もうひとりの自分

 エッセイ連載の第18回目です。
(連載は「何を見ても何かを思い出す」というマガジンにまとめてあります)

 読書会をきっかけに、もうひとりの自分について。

もうひとりの自分の背中

 もうひとりの自分といっしょに歩いている人は、きっと多いだろう。

 私は二十歳のときからだ。
 二十歳で難病になったときから、「難病にならなかった場合の自分」という、もうひとりの自分の姿を思い描くようになった。
 別の人生の道を歩いていく、もうひとりの自分の背中が見える。
 その自分は、いったいどんな人生を歩いているのか。
 少なくとも、今の自分よりは幸せで、その幸せに気づかないくらい無邪気だっただろう。

 こういう思いにとらわれるのは、なにも病気に限らないだろう。
 就職で好きな仕事に就けず、気にそまない仕事をするしかなくなれば、「好きな仕事をしている自分」の姿がどうしてもちらちら見えるだろう。
 一生をともにしたかった相手と別れることになれば、「その人と暮らし続けている自分」を思い描いてしまうだろう。
 起きてほしくないことが起きてしまった人は、「何事も起きなかった自分」をうらやんでしまう。

嫌いで憎い自分のために涙を流すだろう

 ただ、最近、ふと思う。

 もう難病になってから、二十年以上、生きてきた。
 元気だった二十歳までと同じくらいの期間、病人として暮らしてきたのだ。

 もし今、医学の進歩によって、画期的な新薬が登場して、自分の病気が完治したとしたら、どうだろう?
 もちろん、大喜びするだろう。感激し、感動し、感涙にむせぶだろう。
 それはまちがいない。

 しかし、病気だった自分をあっさり切り捨てて、もとの明るい自分に戻れるだろうか。
 きっと、だんだんに戻っていくだろう。
 しかし、もはや、病気だった自分を完全に忘れ去ることはできないだろう。

 今、「病気にならなかった自分」といっしょに歩いているように、今度は「病気のままの自分」といっしょに人生を歩いていくことになるだろう。

 病気の自分は、大嫌いな自分だ。
 病気をして性格が歪み、卑屈になり、やりたいこともやれず、身体はやせほそり、何をするにも不便で、痛みもやってくる。
 そんな自分は切り捨てたいし、そこにためらいはない。

 しかし、それでもやっぱり、その自分を完全にふり払うことはできないだろう。
 その自分の姿を思い描いて、涙を流すだろう。
 嫌いだし憎んでいるが、なかったことにはできない。忘れてしまうことはできない。嫌いで憎んでいる家族のように。

萩尾望都の「半神」

 昨晩、読書会があった。少し前から「まっくら図書館の読書会」というのを始めた。
 そこで萩尾望都の『半神』をみんなで読んだ。
 たった16ページの短編漫画だ。しかし、その世界は大きく深い。いくら語っても語りつくせない。人それぞれに、いろんな読み方があって、私にはまったく気づいていなかったことも多く、目からウロコだった。

 私はこの作品にとても感動するのだが、何に感動しているのか、まったく説明できない。

 あらすじは、こんなふうだ。

 主人公は、結合双生児の姉。妹と腰のあたりでくっついている。
 妹は美しく、「ほんとうに天使のようねえ」と称賛されるのだが、姉のほうは「塩漬けのキュウリだわ」と言われてしまう。
 一卵性双生児なのに、養分を妹に奪われてしまうことで、外見に大きな差がついてしまうのだ。姉はやせ細り、肌も荒れ、髪の毛もあまり生えない。

 知能のほうは逆に、姉のほうだけ平均以上に発達し、妹のほうは赤ちゃんなみだ。しかし、そのことで姉が称賛されることはなく、かえって妹のほうが「無垢」「穢れを知らぬ天使」と愛され、姉は妹の面倒をちゃんとみるように言いつけられる。
 姉は勉強したいのだが、妹が遊びたがるから、それもままならない。

私は一生
こういう目にあうのか

一生 妹への
ほめことばを聞き

妹を
かかえて歩き

妹に
じゃまをされ

 そのとき、分離手術の提案がある。「ふたりをきりはなす」というのだ。そうすることで、姉は助かるが、妹は死ぬことになる。
 姉のほうにも手術の危険はかなりある。しかし、姉はためらわない。「きせきだわ! あぶない手術? かまわない!」

 手術は成功し、元気になってきた姉は、妹に会いに行く。
 妹はベッドの上で、すっかり衰弱している。その姿は、以前の姉にそっくりになっている。

わたしが
一番きらいな
自分自身の顔が
そこにあった

これはなにかの
トリックか

死んで
いくのは
自分じゃ
ないか

 姉は衝撃を受けるが、死んで行くのはやはり妹だ。
 姉はどんどん回復していく。
「すっかりふつうの女の子と同じ生活を送っている」
「むかしは夢にもみなかった毎日」

 しかし、ふと、鏡の中に、「あんなにきらっていた妹の姿をみつける」。元気になった姉の外見は、以前の妹とそっくりになっているのだ。
 鏡の中にいるのが妹だとしたら、じゃあ、自分はどこにいるのか。「わたしはわからなくなる」
 姉は、自分の半分が失われたと感じ、涙がとまらない。

愛よりも
もっと深く
愛していたよ
おまえを

憎しみも
かなわぬほどに
憎んでいたよ
おまえを

 細部のひとつひとつが心にささるし、全体としても、いちど読んだら、心から消え去ることはないだろう。
 読んだ人がそれぞれに、さまざまな読み方をするだろうし、それができる作品だと思う。

 私は、自分を重ね合わせて読んだ。
 もし病気が完治したら、鏡の中の元気な自分の姿を見ながら、病気のままの自分を思って、泣くだろうと思った。
 私の場合、まだ、嫌いな自分を切り捨てられてはいないし、きっと一生、切り捨てることはできないだろう。しかし、切り捨てても涙するだろうと思えるくらいには、嫌いな自分の人生を長く生きてきた。
 そのことをどう考えたらいいのかは、まだよくわからない……。



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