文章を書くということ

(初めての投稿になります。自己紹介のかわりと言っては何ですが、私にとっての文章を綴ることの意味について書いてみました)

私は会話するということが苦手だ。会話が続かないという事もあるが、何よりも相手の言っている事の意味が理解出来ていないような感覚に陥ってしまうのである。内容だけが脳の中を滑っていき、どこにも引っかかることもなく反対側の耳から流れ落ちてしまう。流れ落ちてしまったそれを拾い上げようと思っても、指の間をすり抜けて遠くへと流れていき、ただただその形を見送るだけしか出来ない。そんな自分だけが取り残された、孤独にも似た感覚に脳が支配されてしまうのである。

もちろん、会話が全く理解できないわけではない。流れてしまったものの形を思い出し、恐らくこういうものだったのだろうと言葉を紡ぐ。大抵の場合、それで何とかなるのだ。何てことのない内容を相手と話すだけならば。
そして、このことが会話だけに留まるものならば。

この上滑りする脳は常にと言っていいほど私を困らせているのだが、特に困ると感じる時がある。それは、感想を伝える時である。

理解しないという事は解釈が発生しないという事である。そのため、誰かの話を聞いたり、何かをしたり、そういった事に対してどう思ったと問われても解釈が発生していないから言葉にして伝えられないのである。一瞬にして過ぎ去る感情を取りのがした結果、事実や情報のみが残り、相手の話した内容や自分が行ったことに対する感想が出ないのだ。あくまで語れないだけで、何も感じていないわけではない。言語化出来ないのだ、もっと言えば一瞬にして過ぎ去る感情を忘れずに留め、言語化出来るほど理解が早くないのだ。沢山の素敵な経験や話を聞いたとしても、私の脳にはただの情報しか残らない。

例えば、ウサギを触ったとしよう。ウサギを触る前の緊張や、触った時の安らぎ。毛の柔らかさ、心臓の鼓動、ぬくもり、宇宙のどこを探してもこれ以上の不思議はないのでないかと思わせるほどの生命の神秘さ。この感覚は理解しようとした途端に消え去り、ただの手触り、振動、温度、生物学的情報の羅列へと変わってしまうのである。このただの情報へと転じてしまった体験から感想を伝えようとしても無理なのだ。

「暖かかったです」

たった一言。この程度の事しか相手に伝えられなくなる。
この虚しさを何と表現したものか。

自分のことは自分しか理解できないとよく言われているが、私の場合はその唯一自分のことを理解してくれる世界からも見放されてしまっているのだ。孤独である。その孤独という感情すらも、私の脳という広い世界の中、自分だけが取り残された島で、取り付く島もなく、潮に流され忘却の彼方に向かい流れてしまったそれを眺めているだけなのである。
言ってしまえば、「行ったことはないけれど、そこにスーパーがあるから買い物が出来ますよ」という感覚でそこに孤独が見えているから孤独なんですよ、と言っているようなものである。どうしようもない話だ。
けれども、最近私は取り残された島の上で、橋を架ける方法を見つけた。

文章を書くという事だ。

文章を書くと不思議なもので、流れてしまったものに手が届くことがある。それは流れてしまった沢山ある文書の内の数枚が木に引っかかってそこに留まっていたのを拾いあげるように、全てを取り戻せるわけではない。それでも、そこに書いてあった情報から失くしてしまった瞬間の心の動きを取り戻すことが出来るようになる。それを手に取りゆっくりと解釈し、言語化することが出来るだけの猶予が与えられるのだ。
その取り戻した数枚が自分自身の世界からも見放されてしまった私にとって橋になるのだ。

そんなわけで、失くしたと思い込んでいるものに手を伸ばすために、私自身という近くて遠い未知の世界を巡るために、私は文章を書くことにした。
読んでくださっている人にとってこの橋は、何てことのないただの文字の羅列かもしれない。それでも、誰か一人でも良い。この文章に橋を見つけ、私と一緒に渡ってくれたなら。今まで私ですら触れたことのない世界を、この橋を通して一緒に巡れるのならばそれはとても素敵なことではないだろうか。


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