哲学noteのうさんくささについて

若干、いやかなり墓穴を掘ることになるかもしれないが、このnoteでは、哲学noteのうさんくささについて述べる。ここで「哲学note」とは、タイトルに「哲学」とついていたり、タグに「哲学」が使われていたりして、「哲学」を前面にアピールするnoteのことである。どうもこいつらはうさんくさい。「哲学」と銘打たれているnoteで、「哲学的な内容」に出会ったことがほとんどない。逆に、つい昨日のことだけれど、「哲学」なんて言葉は全く使われていないが、真に哲学的な内容に出会って、いたく感心した。

ここで、「哲学的」という言葉の定義もしておく必要があるだろうが、「哲学的」とは、タレスだかソクラテスだかから始まる伝統的な哲学に関することでもなければ、マイケル・サンデルなりマルクス・ガブリエルなりの現代哲学に関することでもなく、「自分の頭で考えられている」ということを指している。わたしが出会った「哲学note」には、「自分の頭で考えられている」ものがほとんど無かった。どっかの誰かが言ったことを適当に援用して書かれたものがほとんどである。

まあ、そんなにたくさん読んだわけではないので、もっと読めば、自分の頭で考えられているものも見つかるかもしれないけれど、そもそもが、「哲学」をアピールするnoteは、初めから、「これは自分の頭で考えたことではありませんよ。どっかの誰かの考えを拝借したものですよ」と言っていると考えるに十分な理由がある。どういうことか。というのは、もしも自分の頭で考えているとしたら、その内容に対して、「哲学」なんていう言葉をかぶせる必要は無いからだ。そうではないだろうか。自分が知りたいと思ったことをじっと考える人にとって、それが哲学だろうが何だろうが、そんなことは関係ない話だろう。

もちろん、自分の頭で考えられていないnoteもそれなりの役には立つと思う。有名哲学者の言ったことを分かりやすくまとめてくれたものも、それはそれで興味深い。問題は、そのようなnoteを読んだ人が、「なるほど、哲学っていうのはこういうものか、有名哲学者の言ったことを自分なりに理解することなんだな」と思ってしまう可能性があることである。

初めから自分の頭で考えている人はそういう哲学noteに惑わされる可能性はないだろうが、これから自分の頭で考えていこうと思っている人は、大いに惑わされる可能性がある。

自分の頭で考えたい、自分の人生に自分で向かって行きたいと思っている人は、このような哲学noteに惑わされないように。いくら、有名哲学者が言ったことを理解できたとしても、あなたの人生はそっくりそのまま残されている。あなたの人生の不思議は一つも解消されはしない。もしも解消されたように思えたとしたら、それは、それらのnoteによって、不思議を感じる感受性を失っただけの話に過ぎないのである

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