愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ……。

表題の言葉に関して、お話したい

愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。

なんということもない言葉である。愚かな人は、自分の経験からしか学ぶことができないが、賢い人は、歴史、すなわち他人の経験からも学ぶことができる、という意味である。

なるほど、と思った方、いるだろうか。なるほど、と思わされる言葉ではある。しかし、ちょっと立ち止まって考えてみよう。他人の経験、歴史から学ぶというのはどういうことか。歴史というものは、あなたの学びのために進行するわけではない。あなたに何かを教えるために、歴史的事件が起こったわけではないのである。歴史から何かを学んだとしたら、それは、あなたが勝手に学んだのだ。歴史は何も教えることはない。

たとえば、第二次世界大戦について知ったとする。そこから、戦争の愚かしさを学び、二度と戦争を起こしてはいけないという教訓を得たとする。いいでしょう。それは、あなたの勝手である。しかし、もう一度言うが、そういう教訓を得させるために、件の戦争が起こったわけではないということは、肝に銘じる必要がある。

歴史から学ぶと言う。人間、学ぼうとすればどんなことからでも学ぶことができる。対象を学ぶべきものとしてとらえれば、そこから学ぶことができるのは当然である。反面教師という言葉さえある。しかし、歴史とは、果たして学ぶべきなにものかであるのだろうか。その点に関する反省の念を持つ人は、驚くほど少ない。専門の歴史学者からしてそうである。歴史を腑分けしては、事件の背景や沿革を解釈して、批判したり賞賛したりして、それで歴史を理解した気になっている。実に無邪気なことである。

歴史から、他人の体験から、学ぶとは、いったいどういうことなのだろうか。果たして、他人の体験から学ぶことなどできるものだろうか。たとえば、あなたが恋をする前に、他人の失恋の話を聞いたとして、それで、恋愛の辛さを学ぶことなどできるものだろうか。

できるかもしれない。しかし、それは、その人の体験を、あたかも我が身に起こったことして考えたときだけだろう。すなわち、他人の体験でありながら、自分の体験のように思い見なすことができたときだけ、他人の体験は自分の体験となって、そこから得るものがあることになる。

戦争の話であれば、敵機の爆撃の下を逃げ延びた人、爆撃を行った人、爆撃を行う敵機に特攻した人、開戦を決断した人、戦場から遠くにあって戦争を傍観していた人、それらの人の身になって始めて、戦争体験を自分の体験にしたと言うことができる。そのとき、あなたは、確かに戦争を行ったのである。

自分が戦争を行ったのだ。あのとき死んだのは、あのとき殺したのは、あのとき傍観していたのは、他ならぬこの自分なのだと認めることができるとき、人はその戦争という歴史から得るものがある。そうでなければ、何も得るものなど無い。開戦の原因や、戦争の進捗、終戦時の状況を詳細に語れたとして、そんなことが何になるだろうか。

他人の経験を自分が行ったものとしてとらえるとき、他人の経験から得るものがある。しかし、それは、決して学びなどではない。学ぶことができる距離など、そこには存在しない。それでは、他人の経験から、歴史から得るものとは一体何か。こうでしかなかったのだという、深い確信の感覚である。

行ったことを、行わなかったことにすることはできない。行ったことを、次に活かすことなどできない。この一回性が、すなわち、歴史なのである。過去の失恋を、次の恋愛に活かすことなど、決してできないように、過去の出来事を自分のこととしてとらえれば、それを、未来の出来事に活かすことなど決してできないことが分かるだろう。

虚心坦懐に歴史を見てみよう。そうすれば、歴史というものが、あなた自身が作ってきたものだと感じられることだろう。解釈にせよ、学びにせよ、批判にせよ、それらをするには、あなたと対象の間に距離が必要だが、そんな距離など存在しないのである。あなたが歴史なのだ。

愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。しかし、個人の経験と世界の歴史は決して別々に存在するものではない。それらを画然と分けて愚者、賢者と言っても、両者に大差は無いのである。

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