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1200年代の舞楽の口伝書『教訓抄』における尺八・短笛・猿ノ骨

平安時代、宮廷音楽で使われた雅楽尺八の滅亡後、尺八は六孔から五孔へと変化し、武士、僧侶、猿楽師、田楽師、琵琶法師、連歌師など様々な人々へと行き渡っていった。

そして、1200年代の頃は尺八は「短笛」と呼ばれていたことが、『教訓抄』という楽書に書かれている。


教訓抄とは、

1233成立の狛近真こまちかざね(1177~1242年)著の総合的楽書。
10巻あり、前半5巻「歌舞口伝」後半5巻「伶楽口伝」といわれる。
興福寺の楽人であった近真が、家芸を継承すべき子をもたなかったこと、鎌倉時代に入って舞楽が衰退したことを嘆き、後世のために残した舞楽の口伝書。
曲目の解説や教訓を挙げるテキスト形式となっている。
『體源抄』(1512年)『楽家録(1690年)』と並び、三大楽書の一つとされる。


まずは、

巻第四
「他家相伝舞曲物語」の目録
『蘇莫者』に、尺八が登場します。

正宗敦夫編纂「教訓抄 上・下」
日本古典全集第二


『蘇莫者』といえば、聖徳太子です。


教訓抄 巻第四
蘇莫者 
聖徳太子河内ノ亀瀬ヲ通給ケルニ 馬上ニシテ尺八ヲアソハシケルニ メテテ山神舞タル由近代法隆寺ノ繪殿説侍ベリ・・・

〈訳〉
聖徳太子が河内の亀瀬を通り、馬上で尺八を吹かれた時に、その音色を愛でて山神が舞った。近代、法隆寺の絵殿に説明されている、云々


『教訓抄』の著者が、聖徳太子と尺八について、どの文献を参考にしたのかは不明。


聖徳太子は本当に尺八を吹いたのか?!という問題については、
詳しくはこちら↓


正宗敦夫編纂「教訓抄 上・下」
日本古典全集第二



『教訓抄』巻八「管類」には、

答笙
篳篥
横笛
太笛
中管
狛笛

とあり、

尺八の記載は無いですが、

短笛は尺八を云う

とあります。



秘事者
抑長笛 馬融善ノ吹者為長笛 有文選 馬季帳長笛賦 末代此笛ヲ傳テ不吹 可レ尋

短笛ハ尺八云 律書楽図云是以為短笛 今ハ目闇法師猿楽吹く
或書云 尺八者 昔西国に有ケル猿ノ鳴音なくこえ 目出カリケル 臂ノ骨一尺
八寸ヲ取テ造テ始テ吹タリケルナリ 仍名尺八也 貞保ていほうノ親王令吹
王照(昭)君ト云 楽ハ絶テ侍リケルヲ 彼親王尺八ヨリ横笛二 ウツサレタリ


長笛と短笛について書いてあります。四つに区切って読み解いていきます。

抑長笛 馬融善ノ吹者為長笛 有文選 馬季帳長笛賦 末代此笛ヲ傳テ不吹 可レ尋


〈訳〉
馬融は長笛が得意であった。『文選』に季帳の長笛賦がある。末代ではこの笛を伝えてはいるが、吹くことはない。

  • 【馬融】字は季長(帳は誤記?)、東漢(紀元25年—220年)時期の学者、政治家。長笛(当時の一尺四寸 7孔)の達人。

  • 文選もんぜん】中国の詩文選集。日本にも早く伝わり王朝文学に大きな影響を与えた。ここでいう「文選」は恐らく馬融作の「長笛賦」のことだと思われる。


こちらの翻訳は中国人の知人に確認しました。馬融という学者は紀元前の人で、この時点で1200年以上も前に長笛の名人であったということなんですね。「可レ尋」とあるので、確信はないということでしょうか。


短笛ハ尺八云

〈訳〉
短笛は尺八のことを言う


一節切ひとよぎりという呼称は1593(文禄二)年にはじめて確認される(井出氏)そうで、平安時代には絶えて無くなってしまった古代尺八が、「短笛は尺八を云う」とあるように、「短笛」という名で新たな尺八に変化している。


律書楽図云是以為短笛

〈訳〉
律書楽図では、短笛は尺八の事をいい、縦笛を吹くものである。 


律書楽とは、中国の楽書のこと。

和名類聚抄わみょうるいじゅしょう(982年) に、「律書楽図云尺八為短笛縦笛吹者也」とある。

和名類聚抄わみょうるいじゅしょうとは、
〈わみょうるいじゅしょう〉とも読み,《和名抄》と略称する。また〈和〉は〈倭〉とも記す。醍醐天皇の皇女勤子内親王の命により,源順(みなもとのしたごう)が撰上した意義分類体の漢和辞書。承平年間(931-938)の編集か。10巻本と20巻本とがあるが,どちらが原撰かについては論議がある。10巻本は24部128門,20巻本は32部249門に分かれる。漢語の出典,字音,和名などを説明した一種の百科事典である。和名は万葉仮名で記されており,古代の語彙を研究するための貴重な資料である。写本の中には声点(しようてん)を付したものもあり,アクセント資料としても使える。引用書には現存しないものも多い。また文学作品にはあまり見られない,日常使われる物品の和名が多く採用されている。なお本書の研究書としては狩谷棭斎(かりやえきさい)の《箋注(せんちゆう)倭名類聚抄》(1827成立)がある。

改訂新版・世界大百科事典


短笛と呼ばれていたのは900年代からと辞書に書かれているということで、結構古くからそう呼ばれていたとのこと。


国立国会図書館デジタルアーカイブでも見れます。


以前、ここから「律書楽図云尺八為短笛縦笛吹者也」の部分を探そうかと挑戦しましたが挫折しました。笑



今ハ目闇法師猿楽吹く

〈訳〉
今は目闇法師(琵琶法師)や猿楽が、吹いている。


尺八を吹いていた猿楽法師についてはこちら↓


こちらの琵琶法師のかたわらに一節切(短笛)があります↓

この種の一節切は、室町後期から江戸中期まで流行し、近世には虚無僧尺八と肩を並べるほどの隆盛を誇った。中世から近世前半の遺品が各地に伝えられる(高桑・野川「調査報告・現存する一節切」)
一休所持と伝えられる尺八も一つだが、中には戦国武将の武田氏・朝倉氏・北条氏ゆかりの一節切といった由緒のあるものもあり、真偽はともかく短笛が広く愛されていたらしいことがわかる。
一節切は「尺八」ないし「短笛」と呼ばれていた。虚無僧尺八とは兄弟分とみなしたい。
短笛で吹きやすかったこともあり、社会の比較的上層部にある人々がたしなみ、普及していったようです。

泉武夫「竹を吹く人々」


或書云 尺八者 昔西国に有ケル猿ノ鳴音なくこえ 目出カリケル 臂ノ骨一尺八寸ヲ取テ造テ始テ吹タリケルナリ 仍名尺八也 

〈訳〉
或る書には、尺八は、昔、西国では猿の鳴声に感銘をうけ、臂(肘)の骨、一尺八寸を取り作り始め、吹いてみたものであった。よってその名を尺八という。


尺八の起源が、唐代の呂才さん考案ではなく、猿の骨だった!という説。「或る書」は何であるかは不明です。
西国とは、ここでは天竺、インドのことだと思われます。
「猿の鳴声、臂の骨」に関しては、この『教訓抄』より300年後に書かれる『體源抄』に、さらに詳細に書かれています。



貞保ていほうノ親王令吹 王照(昭)君ト云 楽ハ絶テ侍リケルヲ 彼親王尺八ヨリ横笛二 ウツサレタリ


〈訳〉
貞保さだやす親王が吹き、「王昭君」という。この曲は絶えてしまったが、貞保親王によって横笛に移された。



貞保ていほうノ親王とふりがなされていますが、貞保さだやす親王(870-924)のこと。

清和天皇の第4子である南宮とも桂の親王とも呼ばれている人。


貞保さだやす親王とは、

平安前期の皇族。清和天皇と藤原長良の娘高子の子。南宮、南院式部卿宮、桂親王とも。873年4月、母が女御(高い身分の女官)であったことから親王となり、882年1月同母兄陽成天皇と同日に元服した。琵琶、和琴、尺八などをよくして天下無比の奏者ともいわれ、「管絃の長者、尊者」の異名をとった。古部春近(春近の祖父小部吉延とも)に師事したという笛の音は上霧と呼ばれ、ことに「穴貴」と称する高名な笛の演奏は絶妙であったという。幻の名曲「王昭君」を尺八の譜から横笛に移したり、延喜楽の舞も作っている。その美貌に多くの女性が惹かれ、なかには燃える思いを表すのに袖に蛍をつつんだものもいたという。

朝日日本歴史人物事典


教訓抄の数年後の、1272年前後に書かれた『文机談』(ぶんきだん)に貞保親王が登場します。



まとめ、

聖徳太子のことや「今ハ目闇法師猿楽吹く」など、『教訓抄』にはこう書かれていると尺八の歴史本には抜粋されていますが、全文を調査したく解読してみました。図書館にあった正宗敦夫編纂の『教訓抄』は、大正時代に手書きで写されたもので、ページの記載も目次も無しで探すのに一苦労。もしかしたら他にも尺八の文字を見落としているかもしれませんが…。三大楽書の中で最も古い1200年代。よくぞ写し残っていたと思います。

尺八を始めた頃、岐阜の師匠が、尺八は野ざらしの骨に風が吹き込み音が出たのが発祥だと教えてくれました。その頃は、何処にそんなことが書いてあるのだろうなんて疑問にも思わず、師匠も「風が吹いて鳴るくらいに、軽く吹きなさい」というような意味で話してくれた気がする。古くはインドの話だったとは。「或る書」がかなり気になります…。



以上、
1200年代の舞楽の口伝書『教訓抄』における尺八・短笛・猿ノ骨🦴でした!


参考文献
正宗敦夫編纂「教訓抄 上・下」日本古典全集第二
泉武夫「竹を吹く人々」
山口正義「尺八史概説」
井出幸男「中世尺八の芸能」
山田悠「尺八・虚無僧編年史」虚無僧研究会機関誌『一音成仏』第47号
由井恭子「『體源鈔』の参照書とその特徴」
里田佳世 「『蘇莫者』起源説話考」


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