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即・サイ売り #パルプアドベントカレンダー2022

1.

 雨が止んで間もない夜だった。街灯がアスファルトを照らす。平日の駅前の通りは10時を超えると人気がなくなっていた。
 宇和島剛はチヒロの手を取りながら走る。背後から怒号が追い立てる。チヒロの小さな歩幅では追いつかれてしまう。剛はチヒロを背負い、走る。冬の始まりの冷気が肺を苛む。剛はでたらめに道を選んで駆けた。ジュエリーショップの前を過ぎ、中華料理屋の油臭い排気口を抜ける。足音は先ほどよりも大きくなっていた。
 大通りに出て信号にさしかかる。青信号が点滅し、渡る前に赤に変わった。横断歩道の長さは二歩ほどしかない短さだった。車は通っていない。剛は無視して進もうとした。
「父ちゃん」
 耳元でチヒロが咎める。それだけで足が止まってしまう。剛は自分の意志を曲げたことがなかった。だが、チヒロのことになると話は別だった。
 信号は諦めた。右側には大きな車道が通っている。左側には細い路地があった。剛が曲がろうとして足を止めた。
 路地から男がやってきた。こちらを挑発するように金属バットをアスファルトに擦り、不快な音を出していた。
 剛は来た道を戻ろうとする。振り返ると十人近くの男が追いついてきた。
 髭面の男が拳を鳴らす。
「俺の名前、荒木っての。覚えてないよね……」
 金属バットの男が笑った。男の笑顔はひどく歪んでいた。
「お前よ。ムショで俺の右目食ったろ……」
「俺の飯を食ったからだ」
 剛は男たちを一瞥して言った。
「俺にも眼ぇ食わせろよ」
「チヒロが悲しむ」
 剛が言い終える前に男たちが押し寄せた。チヒロが背中にしがみつく。恐怖による反応ではない。剛がいくら動いても離れないためだった。
 男のひとりがナイフで切りつけようとした。剛は大股に右脚を踏み込む。肉と粘液の音とともに左拳が鼻柱を潰した。
 男が悶絶する。取り落としたジャックナイフを剛は手に滑り込ませ、投擲した。遠間のスキンヘッドの男が悲鳴をあげる。
 後ろから髭面の男が殴りかかってきた。男はチヒロごと殴りつけようとしていた。剛が額で男の拳を受け止める。拳から割り箸を折るような音がした。
 圧倒的な数の不利は一瞬だった。今や通りの一角は男たちの悲鳴で地獄と化していた。
 荒木は唇を噛み、血を流した。練り上げた作戦が剛という暴力の前に崩れていく。当初、駅で剛を見て好機だと思った。刑務所での剛の魔人ぶりは子どもを連れる剛からは感じられなかった。
 複数人相手では子どもをかばいきれず、右目を差し出すかもしれない。荒木の予想は確信に変わった。だからこそ、舎弟をかき集めた。失った右目とプライドを手に入れたかった。
「米粒が俺の目ん玉と釣り合うかよ……」
 歩行者信号が青に変わる。荒木の顔が再び歪んだ笑みに満ちる。エンジンの爆音が荒木の横を突っ切った。
 剛は強い光に照らされた。それが車のヘッドライトと分かった時には族車が1メートル先まで迫ってきた。
 法定速度オーバーの殺人激突だった。極限までのシャコタンが剛と車道沿いの法律事務所を破壊した。コンクリートが砕け散り、煙になった。荒木の乾いた笑い声が残響となって消える。
「剛ィ……テメェ殺せるならガキも警察も怖くねぇよ。お前の右目はもらって──」
 荒木が目を見開く。
 剛とチヒロは変わらず信号前に立っていた。剛が両手を払うと糸屑が風に吹かれていった。糸屑は黒い髭だった。先ほど剛が掴んでいた髭面の男のものだ。荒木の頭の中に幻覚が浮かんだ。激突の瞬間、剛が車と自分の間にサーフボードのように男を噛ませて躱す姿だった。
 人間にできるのか。まして子ども一人背負ってそんな真似ができるのか。
 できる……この男なら!
 荒木の思考は5秒にも満たない。剛の踵が荒木の脳天に落ちるには十分すぎる時間だった。骨の砕ける音がした。荒木は目から血を流しながら倒れた。
「物を壊すのは良くないよな」
 剛の言葉にチヒロは頷いた。
 青信号が点滅する。信号機は赤に変わった。

2.

 チヒロに会ったのは2年前のことだ。出所後、剛がチョコバナナ工場に勤めたときだった。
 仕事が早く終わると、近所のアパートの前に倒れる人影を見つけた。それがチヒロだった。その時は冬将軍が来ていた。綿のように降り積もった雪の上を、子どもが半袖半ズボンで這っている。脚が外側にねじれていた。地面を掴む手がかじかんで赤い。悲壮な光景に剛であっても息を呑んだ。
 アパートの二階から叫び声が聞こえた。こちらに女が走ってくるのが見えた。剛はチヒロを肩に担いで走っていた。反射的な行動だった。チヒロへの憐憫はなかった。ただ自分の身体の動きに従っただけだった。
 人さらいじみた出会いにも関わらず、チヒロは剛に懐いた。チヒロには恐れがなかった。荒木のような連中が現れるのは珍しくなかったが、一度も泣き声を上げなかった。
「ちょっと」
 工場の休憩中だった。ぬっと大きな影が現れた。声をかけてきたのは工場長のミヅ江だった。
 業務の間はミヅ江の事務室でチヒロを預かってもらっていた。最初、剛は断ったが、「騒がしい方が仕事が捗るんだよ」とミヅ江は面倒をみてくれた。
「これ見てみてみな」
 ミヅ江が手を広げる。掌の上には灰色のイルカが乗っていた。よく見ると折り紙だと分かる。折り目のラインを際立たせ、イルカの流線形を見事に表現していた。
「これをチヒロが?」
「そうよ。昨日からずっと折ってたのよ。子どもの成長は早いね!」
 ミヅ江が肩を揺らして笑う。ハスキーボイスで快活に笑う人だった。
 チヒロは預けられてからずっと折り紙で遊んでいた。はじめは兜や猫を折っていたのが、いつの間にかプロと見紛うような精巧な折り紙を作っていた。剛はチヒロの作品を家に持ち帰って飾っていた。
「もう60個目ですよ」
 ミヅ江はイルカを剛に手渡し、事務室へ戻った。
「チヒロちゃんは将来あるよ。大事にするんだよ」
「いやあ、すごいな」
 隣で海苔弁当を片手に男が歩いてきた。箸を持つ指が細く頼りない。ひどく痩せた男だった。
「曽根原」
「よう」
 男が割り箸を上げて返事した。曽根原は剛と同じ〈ツケ〉を担当していた。ツケとは剥身のバナナにチョコにくぐらせる役割だ。
 この男を見るたび、剛は両手を持ち上げられたエイリアンを思い出す。なぜかこの男と馬があった。
 曽根原が剛の掌に顔を近づける。イルカの出来に眉のない顔が笑う。
「コイツで飯が食える」
 曽根原は飯を咀嚼する。
「ところで剛。荒木と派手にやったみたいだな」
「あっちが自滅しただけだ。世の中には相手の力を想像できない奴が多い」
「お前は別格だろうに……。ベルベットスーツの男はいなかったか」
 曽根原が剛の目を見た。剛はいつもこの質問を投げかけられる。
 ベルベットスーツの男は曽根原がずっと追っている存在だった。
「……いない」
「正直に言ってくれ。奴を捕まえたらなんでも叶うんだぞ」
「本当にいなかった」
 曽根原が磯辺揚げをかじる。表情は思案したままだった。
「もうすぐサイ売りが街に現れる……」
 サイ売りとは何か。剛が聞くことは叶わなかった。
 突然、工場全体が揺れた。バギバギと金属音が耳を聾する。音の出所はバナナの皮剥き機からだった。「止めろ」と方々から叫び声がする。工場内にサイレンが響き渡った。
 剛と曽根原が皮剥き機に向かう。5メートルほどの高さの鉄の塊が見える。その周りを他の作業員が行き来していた。
 バナナ剥き機から火花が散った。バラの花びらのようなものが機械から飛び散った。すぐに鉄の臭いが充満した。

3.

 作るのは難しく、壊すのは一瞬だ。チョコバナナ工場も例外ではなかった。工場は人身事故により閉鎖が決まった。
 不運は続くものだ。
 閉鎖が決まった翌日だった。剛がチヒロを連れて家に戻ると鍵が使えなくなっていた。大家からの予告はなかった。
 剛にとって死活問題だ。通帳とチヒロの作品だけは手元に置きたかった。剛の力でならドアは破れる。ドアに拳を振り上げた。
「父ちゃん」
 チヒロは厳しい。壊そうとする剛に敏感に反応した。
「……」
 チヒロの大きな黒目を見て剛は拳を下ろした。
 代わりに大家を探したが、出払っているようだった。方法を考えるため、あてどなく歩くしかなかった。
 夜が更けてきた。冬が本格的に始まっている。擦り切れたマウンテンパーカーのジッパーを首まで引き上げる。チヒロの手を握る。体温がいつもより温かく感じた。
「剛」
 曽根原が声をかけてきた。剛が訳を話すと、曽根原は剛の家までついてきた。
「昔取った杵柄だ」
 曽根原が取り出したのは二本の極細のドライバーだった。
「いつも持ってるのか」
「困った友人を助けるためにな」
 器用に鍵穴でドライバーを動かす。10秒とかからず扉が開いた。
 チヒロは咎めなかった。剛が何もしないなら許可範囲なのだろう。
「入ってくれ」
 剛は曽根原を招いた。本棚の半分ほどがチヒロのギャラリーになっていた。龍や象、狼などが飾られている。テーブルを挟んで剛と曽根原が座った。チヒロは少し離れた座布団に寝転んでいた。手には灰色の折り紙があった。
「チヒロちゃん。灰色が好きなのかい」
 曽根原が聞いた。
「父ちゃんの服と同じ」
 チヒロが壁を指差す。剛の灰色の作業着が吊ってあった。
「羨ましいな」
「話があるんだろう」
 曽根原が微笑んだ。
「サイ売りを見つけたんだよ」
「その、サイ売りってのは何だ……」
「知らないのか」
 曽根原が驚くと眉毛がない分、少し滑稽だった。
「サイ売りはこの街の伝説だ」
 「長くなる」と前置きして曽根原は語り出した。
「この街が村だった頃、教会があった。神父はとても優しい人で身寄りのない子どもの世話をしていた。しかし、長雨で作物が不作になってしまった。
 神父が面倒を見るのは難しくなった。悩んでいると、教会に人が訪ねてきた。門の前に旅人がいた。旅人は赤い燕尾服を着ていた。雨で凍えており、一日だけ宿を貸してほしいと言った。神父は不憫に思った。旅人を泊めてやると、とても喜んだ。お礼に旅人は黒い箱を取り出した。旅人は神父のポケットを指差す。神父はいつもポケットに食品庫の鍵を入れていた。鍵は見たことのない形に変わっていた。旅人に言われるままに神父が鍵で開けると、大きなサイが飛び出した。サイは鎧に包まれた身体を揺すった。神父が呆気にとられていると、旅人はいつの間にかいなくなっていた。
 子どもたちは大喜びしたが、やはり生き物を買う余裕はない。神父がまた悩んでいると、サイは神父についてきた。すると、珍しさに人が集まってきた。人だかりになり、その動物の人気ぶりと珍しさに都の王様もやってきた。神父は王様にを渡すと、お礼に金銀財宝をもらった。それから子どもたちは飢えることなく生活できた」
「……そのサイ売りがいたのか」
「間違いない」
 曽根原が嘘をついている素振りはなかった。
「サイの角は末端価格で六千万は下らない。大学の資金だってアッと言う間だ」
 剛はチヒロを見た。彼女は新しく何か折りはじめていた。チヒロの才能を活かすには進学させた方がいい。今の自分にそれができるだろうか。
「話を聞くに……サイ売りは箱を持ってるようだが、鍵はどこにあるんだ」
 曽根原が顔を近づける。
「剛。なんで俺がここに来たのか分からないのか」
 曽根原の視線が剛のジーンズに注がれていた。ポケットから鍵を取り出す。銀色の鍵は炭を塗ったように黒くなっていた。
「やっぱりお前が神父だ」
「俺はサイ売りに会ってない。助けてもいない」
 曽根原は首を振る。
「俺はサイ売りの話を何度も読んだ。あれは恩返しでサイを出したんじゃない。元々、神父の鍵が箱の鍵に変わるようになってたんだ。それを知ってサイ売りは訪ねた……」
「サイ売りは箱の鍵を手に入れるために訪ねた……?」
 チヒロがあくびをした。
「そう……。サイ売りの箱にはストッパーがある。サイが無限に手に入ればサイの価値が下がってしまう。だからサイを出し終えると鍵は別の場所にポップする」
 信じがたい話だった。真実であれば面白い。  脳裏にひとつの考えが浮かんだ。
「鍵のもとには必ずサイ売りがやって来る……?」
 稲光りが轟いた。アパートの扉から軋む音が聞こえた。重機が建物を破壊する轟音に似ていた。
 剛が廊下に出る。扉に手が張り付いていた。土蜘蛛のような手がうごめくと、扉が音を立ててひしゃげた。手の主は外から扉を潰していた。もう片方の手が壁を貫通して扉の反対側を掴んだ。
 ばごっ……ぼごっ……
 スチールの扉は目の前で二つに畳まれていく。隙間から月光が差し込み、外から寒風が吹き込んだ。逆光の中、人影は扉を外に投げ捨てた。
 剛が一気に距離を詰めた。ほとんど恐怖に突き動かされていた。
 大股の右脚から前蹴りを繰り出す。手応えはなかった。剛の足を大きな手が掴む。吸い付いたように手は離れない。反対の足で剛は顔面を蹴ろうとする。その足も掴まれた。
「ほっ」
 人影の声が聞こえた時には、突き当たりの壁にぶち当たっていた。衝撃で肺から空気が押し出された。
 人影は剛を支え、背筋のみで投げていた。
 剛が立ちあがろうとする。脳がかき混ぜられたのか。めまいで地面が迫ってくる感覚がした。
 廊下から人影が歩いてくる。居間の明かりに照らされる。
 呻く曽根原の前に大猿が立っていた。
 大猿は薄緑色の作業着を着ており、袖を捲っている。そこから伸びる腕は毛に覆われて太い。足には長靴を履いていた。一見すると何かの飼育員に見えるが、それを塗りつぶす暴力の気迫に満ちていた。
 大猿が腕をゆっくりと上げる。ぶん、と空気が震える。衝撃音がした。曽根原が床に突っ伏した。
「狭苦しい穴ぐらじゃ。とっとと終わらせるぞ」
 廊下から誰か現れた。赤いサテン地のスーツを着た老人だった。頭のシルクハットが奇術師じみている。老人は鼻を摘んで不快そうな表情を隠そうともしなかった。
「サイ売りか……」
 剛に向き直り、大猿のつま先が鳩尾をえぐった。
「リッキー、やめんか。こいつのゲロで鍵が汚れたら台無しだ。お前はあっちを探せ。小僧、黒い鍵を知らんかね」
 剛は老人を睨め付けた。
「お前は自分の立場が分からんようだな」
「それはお前たちの方だ……」
 居間の端、台所で叫び声が上がった。老人が振り返る。大猿がチヒロを掴み上げていた。大猿の脇腹には包丁が刺さっていた。チヒロを掴む腕の血管が膨らんだ。
「リッキー! この大莫迦者が!」
 老人が大猿を大喝した。
「子ども殺しにエレガンスはない」
 大猿はチヒロを置き、剛に飛び上がった。その後は大猿の踵の雨あられだった。全身が打身で熱くなる。老人は剛から鍵を奪い取った。
「返してもらうぞ。リッキー、後始末はしたな? 子どもは連れてけい」
 赤いスーツがひょこひょこと廊下を歩き去る。
 薄れる意識の中、剛は目を見開く。大猿はチヒロを担いで遠ざかる。チヒロの名前を叫ぼうにも唸り声しか上がらない。チリチリと頬が熱くなる。テーブルが燃えている。
 カーテンが燃えると一気に火の手が増した。
 奴らの背中を凝視する。大猿の背中に白い虎のエンブレムが描かれていた。
 白い虎……。大猿のリッキー……。赤い男……。
 剛は脳に刻み込む。サイ売りに復讐を誓う。炎が部屋を包む。意識が遠のいた。
 折り紙が燃えていく。

4.

「チヒロッ!」
 目が覚めたとき、剛は夢かどうか区別がつかなかった。何もかも剛が知っている。チョコバナナ工場の事務室だった。
 ヤニで黄色くなった天井から視線を移す。壁には建設会社の名前入りのカレンダーがかかっている。普段は書類だらけの大きな机の上には座布団が敷いてあった。
「やっと起きたようだね」
 事務室の入り口のパイプ椅子にミヅ江が腰掛けていた。隣には曽根原がいる。剛は自分が手当てされているのに気がついた。
「工場長が?」
「元、だよ。曽根原から話は大体聞かせてもらった。あんたも聞かせとくれ」
 剛は事の経緯を話した。大猿のリッキー、赤い男を思い出すと怒りが思考を満たした。
「背中に虎のエンブレムがあった」
「それは白かったかい?」
 ミヅ江の目が光った。剛が頷いた。
「そいつはエジンバラ動物園の園長だよ」
「経営の立ち行かない動物園を買い上げた奴がいるらしい」
 曽根原が言った。
「園長は穢神原伯爵。赤いスーツのいけすかないジジイさ」
「なんで工場長が知ってるんだ」
「ここは奴が潰したんだよ」
 ミヅ江曰く、穢神原伯爵は工場から安く動物園用のバナナを仕入れさせようとしていた。機械の事故は大猿に指図したものだった。
「だからアタシは奴らを探していた。お陰であんたたちを見つけられたよ」
 ミヅ江が唇を吊り上げて笑った。剛は曽根原に向いた。
「奴は本当にサイ売りなのか」
「鍵を狙っていたのを見ればそうなのだろう……。奴を捕まえて聞くしかない」
「アタシたちは互いに奴らに借りがある」
「一泡吹かせるか」
「行こう」
 剛が出て行こうとするのをミヅ江が止めた。
「言ったろう。アタシは奴らを狙い続けてんだ。もう作戦は出来上がってるよ」
 ミヅ江の笑みが不敵なものに変わった。いきなりミヅ江は部屋の端の段ボールをつかんで逆さまにした。中からチョコバナナが大量に転がり出た。
「まずは腹ごしらえといこうじゃないか」

5.

 冬の青空は潔癖すぎるほど青い。穢神原伯爵は舌打ちした。
「ふれあいコーナーは何をしておる」
「それがまだ」
「さっさと探せい!」
 職員の答えに伯爵は、先ほどよりも大きく舌打ちした。
 エジンバラ動物園にはふれあいコーナーがある。今日はヤギが一匹消え、朝から捜索が始まっていた。
「花子ー!」
 ヤギの花子は好奇心旺盛だ。ふれあいコーナーの柵から出て他の区域にいることも考えられた。
「行くぞ」
 伯爵がリッキーを連れて園内を捜索する。動物園の職員は少なかった。伯爵はエレガンスがない職員を粗方解雇したからだった。代わりにいるのは、園を囲む四つの見張り台にいる狙撃手だった。伯爵は猛獣の管理の名目で職員に銃の所持を許可させていた。
 リッキーが背を伸ばす。象のエリアを見回した。園内にはインドゾウとアフリカゾウの飼育区域があった。緩慢な動きで尻尾を振る象以外、見当たらなかった。
「花子はいるか」
 リッキーが首を振る。伯爵は自分の顎をさする。ヤギの行く場所を思案している時だった。
 黒い煙があがる。次いで爆発音がした。
 煙は共用トイレからだった。象たちがけたたましく叫ぶ。
「お前たち!」
 伯爵の声は届かない。柵を破壊し、象は道を走る職員を撥ね飛ばした。そこら中から銃声が轟いた。ヤギが列をなし、ライオンが跋扈する。人と動物の境がなくなっていた。
「リッキー!」
 伯爵の掛け声で大猿は伯爵を肩車した。緊急用の移動手段だった。
 リッキーの耳を引っ張り左右に動かす。裸足が地面を掴み動物たちをすり抜ける。お土産売り場が見えた。伯爵が降りる。自動ドアを抜け、書籍棚のひとつをずらした。
 ずず……。重たい音を立て螺旋階段が現れた。
「戦の前で良かったわい……」
 伯爵は誰となく呟いた。戦争時、動物園は動物のシェルターを用意していた。今は伯爵の改造が施されている。間接照明と赤色の絨毯の階段を降りる。
 扉を抜けると乾いた空気が顔を撫でた。黄色い平原と岩場のサバンナが広がっている。半球の天井は雲がかった青空が模してある。
 シェルターは伯爵用の動物園に変えていた。
 平原には檻がが置かれている。その中に体育座りをしたチヒロがいた。
「ヤギは来なかったか」
 チヒロは無言で伯爵を見返した。見回しても平原にヤギの影は見当たらなかった。
 不意にリッキーが殺気を帯びた。扉が軋んで開く。
「父ちゃん!」
 チヒロが声をあげた。
 サバンナの入り口に顔を腫らした男が立っていた。 

7.

「ここをなぜ……」
 伯爵が顎をさする。
「お前はチョコバナナ工場の恐ろしさを見誤った」
 剛が言った。
 ミヅ江の作戦は見事だった。見張り台のある園のガードを同時に問題を起こして解決した。
 まず、曽根原を清掃員として潜り込ませた。清掃ルートをなぞり、ふれあいコーナーからヤギをゴミのコンテナに隠した。帰りに曽根原は爆弾をトイレに設置した。
 あとはヤギの行方不明に気がついた頃合いにトイレを爆破するだけだった。
 無骨な作戦は園を混乱に陥らせた。侵入は容易かった。剛は伯爵を追ってたどり着いた。
「今度逃げるなら赤い服はやめておくといい」
「リッキー!」
 伯爵が命じる。だが、大猿は動かない。剛を中心にジリジリと円を描くように移動した。
 サバンナの空気が怖気づかせたのか。
 大猿は機を見計らっていた。剛の無鉄砲な攻撃を待ちかまえているのだ。それが唯一の確実な勝利法だと大猿は気づいていた。剛に踏み込んだ後の想像がつかない。そう思わせるほどに隙がなかった。
 剛もまた同じように大猿を見ていた。大猿にはチヒロのつけた包丁の傷がある。それが勝機を手繰り寄せるには細い糸に感じた。猫背で隠れているが、大猿の腕は長い。およそ人間の2倍はある。怒りに任せて飛び込めば掴み殺されてしまう。
 平原で草を踏む音だけが聞こえる。
「リッキー、やれ!」
 たまりかねて伯爵が叫ぶ。
 大猿は飛び上がった。
 紛い物の青空を剛はキッと睨む。3メートルほど浮かんだ大猿はさらに大きく見えた。剛は地面を蹴り、飛んだ。
 大猿と剛が空中で交差する。胸から背中にかけて血を噴き出したのは、大猿だった。岩場に赤い模様が描かれた。大猿は力なく倒れた。
「リッキー……!」
 伯爵は大猿の元に膝をついた。
 剛のマウンテンパーカーには一本の引っ掻き傷が出来ていた。チヒロの刺し傷がなければ剛が倒れていたかもしれない。
「父ちゃん」
 檻の鍵は開いていた。チヒロが剛の脚に抱きついてきた。剛が小さな頭を撫でる。
 遅れて曽根原とミヅ江がやってきた。
「工場長も来たのか」
「平手打ちくらいしないと気がすまないからね」
 伯爵に近づくなり、ミヅ江は頰を張った。
「あんたがサイ売りなのか?」
 項垂れた伯爵を見下ろし、曽根原が訊いた。
「なんのことだか……」
「鍵を奪っただろう」
「あんなものはとうに捨ててしまった」
 いくら伯爵の懐を探しても見つからなかった。
「鍵を見なかったか」
 曽根原の問いにチヒロは首を横に振った。
「捨てた場所は公園だ。お前たちが必死に守るもんで奪ったがただのゴミじゃ。そして──」
 伯爵が笑いながら指をぱちんと鳴らした。
 部屋の端から白い煙が立ち込めた。
「お前たちはここで死ぬ」
 伯爵が剛に迫る。右手を引き抜いた。伯爵の右手は精巧に作られた義手だった。手があるべき場所に針が煌めく。剛は突き飛ばされた。
 ミヅ江の胸に針が突き立った。
「工場長ッ!」
 ミヅ江は枯れ木のような伯爵の腕を掴んで離さなかった。口から血がこぼれた。
「早く行きな!」
 剛が出口を見た。扉が閉まり始めていた。
「あたしが伯爵を連れて行くよ!」
 ミヅ江が息巻いた。顔の色は青白くなっていた。
「行くぞ!」
 チヒロを抱えた剛と曽根原が走る。煙で前がほとんど見えない。扉はほとんど閉まりかけていた。剛が滑り込んで扉を抑える。曽根原が出た。
「ミヅ江さん!」
「チヒロちゃんを頼んだよ!」
 扉が完全に閉まった。扉の隙間から煙が漏れ出した。
 剛たちは地上に上がった。ライオンが咆哮する。キリンの蹴りでゴミ箱が宙に浮いた。
 曽根原の携帯電話が鳴った。着信はミヅ江からだった。曽根原がスピーカーモードに切り替える。
「外に車を用意したから出てきな!」
「伯爵はどこに?」
「何言ってるんだい。あたしは最初っから車の用意でそっちに行ってないよ!」
 電話のミヅ江は地下の伯爵について知らなかった。剛と曽根原は顔を見合わせる。
 地下にいたのはどう見てもミヅ江だった。
「さっさと来るんだよ!」
 ミヅ江の発破に気をとり直した。曽根原がチヒロを背負う。剛とともに動物園を駆け抜けた。

8.

「ひひ……」
 堪えたような笑い声が地下室を満たす。
 伯爵はミヅ江から針を引き抜いた。煙が晴れ始めた。
 賭けに勝った!
 煙は舞台用のスモークに匂いづけしただけだ。毒ガスと剛たちが信じるかは運次第だった。
「勝ったぞ……」
 シルクハットの裏地を剥がし、鍵を取り出した。照明で鍵の黒さが際立つ。伯爵の顔に笑みが広がった。
「あとはサイ売りを待つだけ……」
 不意に足元で物音がした。貫かれたはずのミヅ江の手が動いている。
 伯爵が針を刺そうとする。ぐるんとミヅ江の顔が伯爵に向いた。
「余生は楽しく過ごせたかい」
 ミヅ江の顔が乾いた泥のように剥がれる。下から男の顔がのぞいた。伯爵が呆気に取られたのは一瞬だった。
「来ていたのか……」
 伯爵が呻く。
 男はミヅ江の皮を拭い落とす。銀色の髪が肩にかかった。服はいつの間にか黒いスーツに変わっている。その姿は荘厳さを兼ね備えていた。
「あなたはサイ売りから降りたのに。また呼ぶんだね」
「違う」
「あの日、旅に飽きてしまったんだろう。慰めにこんな紛い物まで作った」
「断じて、違う!」
 人工の風がそよいだ。伯爵の脳裏に過去の記憶がよぎる。旅人は草原を城を自由に歩いていた。鍵の持つ鉄錆の匂いにつられて次の街に移る。匂いの主を訪ね、旅人は懐から箱を取り出す。興味深々な主たちの顔が好きだった。箱に鍵を刺すと、角の生えた生き物が飛び出す。未知の生き物に主たちは目を丸くした。
 旅人は全然歳を取らなかった。何人目だっただろう。鉄錆の匂いに誘われて教会を訪ねた。
 旅人は神父に出会った。子どもと戯れる彼の横顔を見たら「そうありたい」と思ってしまった。箱からいつものように生き物を出す。神父はそれをサイだと教えてくれた。
 サイを出す君はサイ売りだね。
 子どもに向ける笑みを旅人にも向けた。これが笑顔なんだと分かった気がした。こんな風に笑える人になりたいと思った。急に箱を見せびらかす自分が馬鹿らしくなった。
 よければ預かりましょうか。
 言われるまま旅人は箱を渡した。
 神父が受け取り、代わりに教会とサイをくれた。
 旅人は神父になり、神父は旅人になった。ふたりが再び会うことはなかった。
「爵位を取れど、子どもと遊べど何も分からなかった。人の楽しいは儂の楽しいにはならなんだ!」
 伯爵の眼は充血して赤い月を思わせた。神父は平原を指差した。事切れた大猿がいた。
「楽しかったんだろう」
 伯爵は神父を見た。楽しくないから動物園を乗っ取った。楽しくないから猿の面倒を見てやった。
 自分は楽しいことを楽しいと自覚出来ずに余生を過ごしてしまったのか?
 伯爵の手から鍵が落ちた。神父が拾い上げる。懐から箱を取り出した。表面は艶のない黒色だった。見知らぬ文字と有機的な紋様で覆われており、中央には鍵穴が開いていた。神父は鍵を差し込み、半時計回りに回した。
 逆再生したような音楽が鳴り響く。
 伯爵の身体が風船のように膨れ上がった。赤いスーツを破り硬い皮膚が姿を現す。顔は鼻が陥没して骨の白さを持った角がせりだした。
「虚無を抱えた人間は、いいサイになれる」
 サイ売りの前には大きな一頭のサイが立っていた。灰色の巨大を揺らし、サイは尻尾を振った。

9.

 ガラスの向こうは静寂が支配している。
 初雪だった。ベランダにはうっすらと雪が積もっていた。粒の大きい雪が降るのが見えた。
 チヒロと剛は曽根原の家に身を寄せていた。部屋は2LDKだった。駅から遠いのが玉に瑕だが悪くない。
 あの後、ネットニュースでエジンバラ動物園の廃園が報じられた。曽根原は街の公園を探し回ったが最後まで鍵は見つからなかった。
 伯爵の力が消えた街でミヅ江はまた工場を再起させるため奮起しているようだ。
「結局、サイ売りは見つからなかった」
「どこかにいるはずだ」
 曽根原はチヒロと折り紙をしながら言った。チヒロの作品は着実に数を増やしていた。この頃のチヒロは遊び相手が見つかって嬉しそうだ。
「違う」
 チヒロが首を振った。手本を見せるように折り紙を折る。迷いなく複雑な形を作り上げる。灰色の紙は棍棒を持った鬼になった。
「むずいって……」
 曽根原が笑い、また折り始めた。
 しばらく折り紙で遊んでいると扉がノックされた。剛が廊下に出る。以前のように大猿が来たような気配はない。扉を開ける。感触が重たかった。
 外には誰もいなかった。代わりにドアノブにゴミ袋がかかっていた。黒色のため中身はわからない。袋を触っても生き物や危険物ではなさそうだ。
 袋の端から一枚の紙切れが落ちた。

 ──お好きなように。 R

 万年筆で書かれている。曽根原が様子を見に来た。剛が袋の口を開く。一万円札がぎっしり詰まっていた。インクの匂いが漂った。
「おい……」
 そう言ったきり曽根原は黙った。
 時間が止まったようだった。裾が引っ張られ、剛が振り返るとチヒロが見上げていた。
「折り紙、きれちゃった」
 灰色の折り紙がなくなったときの決まり文句だった。同じ色しか使わないチヒロの折り紙は、極端に減りが早かった。
 チヒロが背伸びをする。袋の中身を見て目を丸くした。
「あるじゃん!」
 チヒロが袋にしがみつく。袋が小さい体に落ちないように、剛が支えようとする。絶妙な力加減で袋がすっ飛んだ。回転して一万円札を撒き散らす。天井から一万円札が降った。床はすぐに紙幣で埋まった。夢でも見ているようだった。
「馬鹿みたいだ」
「……全くだ」
 剛たちは目の前の光景をただ見ていた。チヒロは落ちていたのが折り紙じゃないと分かると興味を失ったようだ。
「チヒロ。外に出よう」
「ん」
 サイ売りがいるのか分からない。それでも今はこれで良し、と思った。
「今日は街から折り紙を無くしちまおう」
 そう言って剛は無造作にポケットに札束を詰め込んだ。

【了】

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