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スマホがない時代にわたしはどうやって街を歩いていたんだろう

  知らない街に引っ越してきてから感じるのだが、もしスマホがなかったらわたしはきっと3秒で道に迷って家に帰れなくなると思う。Googleマップなしに街に繰り出したわたしは見当違いの方向へ走り出したが最後、目的地に辿り着くこともなく、3秒後には道の端に立ち止まって泣きべそをかきながら海難救助隊だか山岳救助隊だかに連絡せざるを得なくなっているだろう。


  もちろんこれはまだこの街の地理に詳しくないからで、もう少しここに住めばある程度の地形を把握することはできるのかもしれない。しかしこれは希望的予測であり、地元のクソ田舎とは違う都会の複雑な街並みでは、いつまで経ってもややこしく入り組んだ道の把握ができない可能性も高い。こう言う街並みを自転車で走り抜けると「スマホとGoogleマップがない時代にわたしはどうやって街を歩いていたんだろうか…?」と不思議に思う。


  幸いなことにわたしは子供の頃は京都市内に住んでいた。碁盤の目で名高い京都の街は、子どもにもシンプルで分かりやすい構造をしており、適切な目印を把握しておけばそう滅多に迷うことはない。それに京都の市内には市バスというものが走っていて、これにぶんぶん揺られながら乗っていると大抵の場所へは連れて行ってくれる。そう言うわけで子供の頃のかたなし少女は地図や路線図が読めなくても大体の場合困ることなく生活ができており、道に迷って路上で一夜を明かすと言うこともなかったわけである。


  これと似たようなことは、電車の乗り換えの時にも思う。まだスマホがなかった時代には細かい字で書かれたわかりにくい時刻表しかなかったので、乗り換え時刻の計算や進行方向の確認をミスって頻繁に意味のわからない場所まで連れて行かれた。だからわたしはジョルダンやNAVIタイムを運営している人には頭が上がらないし、いまやスマホを持たずに地下鉄に足を踏み入れることは恐ろしくてできないと思う。わたしはスマホを持っているときでさえ、進行方向と真逆の電車に乗った挙句終電を逃してネカフェで一泊したことがあるのである。そんな人間が文明の利器の力を装備せずに地下鉄ダンジョンに踏み込めばどうなるかは、推して知るべしというところである。


  わたしは人に比べてもデータ把握力が弱い方だという自覚があるので、多分世の中の大半の人間はこれほど迷ったりしないのだと思う。それでももうわたしにとってはスマホなしの街歩きは考えられない。もしスマホなしで知らない街に放り出されたら、RPGのようにザッザッザッと街を横切り、市民の家に押し入って壺を割ったりしなければ正しい目的地に辿り着ける気がしないのである。


  以前わたしはこの記事で眠れない夜にだけスティーブ・ジョブズに感謝すると書いたが、よく考えると街を歩く時にもジョブズには感謝しなければならないだろう。

わたしがこうも頻繁に感謝しているのだから、空気中に浮かぶ彼の霊体もおそらく半分は成仏しかけ、さざ波のような光に照らされながら悔いのない表情をしているはずだ。さらばジョブスよ、安らかに眠れ。わたしは今日もなんとなくアメリカっぽい方角に向かって感謝の念を飛ばしながら暮らしているのである。

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