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過保護の先にあるものは?失敗を奪い続けることの弊害について

先日職場の同僚との間で話題になったことがある。最近、学生たちの質に変化がみられるっていう話。多分悪気はないのだろうけど、ちょっと調べればわかることをはじめとして、なんでもかんでもすぐに聞いてくるケースが多いらしい。設立時から見てきたメンバーたちからすると、その言動に対する見立ては、自分で考えることがあまりできていないのではないか?っていうことらしい。そこで僕が思ったのは、おそらくこれまでの間、過保護に育てられてきたことが影響しているんじゃないかなぁってこと。
そして、causaのカウンターでの小児精神医さんとの会話を思い出した。
そのとき印象に残ったのが「失敗を奪い続ける」というフレーズ。

話の内容を僕なりにまとめると、子育てや教育現場において、可愛さのあまり、もしくは、幸せな行末を願うあまり、常に先回りしてお膳立てしたり露払いするようなことをしてしまいがちだけど、それは本当に良いことなのかっていう話。
実際にそうしてしまうことが、何を意味するのかというと、本人にとっては大人になるまでの間に失敗する経験ができないことになるし、失敗に対する耐性のようなものを身につける機会もなくなるってことになる。そんな状態でいきなり社会に出て失敗したらどうなるか?きっと、大きなダメージを受けることになるだろうし、下手をすれば立ち直れない状態になってしまうこともありえる。
となると、良かれと思ってやったことが、全く逆の結果を招いてるってことになるわけだ。
これがまさに失敗を奪い続けている状態。
もちろん、できれは痛い目にあわせたくないっていう気持ちも分かるけど、長い目で見ると、早いうちにそういう経験をさせておいた方が、できるだけ多くそういう経験をさせておいた方が、圧倒的に本人のためになると思う。

つまり、本当にその子の将来のことを考えているのなら、よっぽどのこと以外はとりあえずやらせてみることが大事。そして、自分の経験をふまえて予想される結果を押しつけるんじゃなくて、本人が考えて決めて行動できるように、サポートする言動を心がけた方がいいってことだろう。

そんな話に、すごく同感して腑に落ちた次第。

だからこそ、自分の息子たちには可能な限り、そういう接し方をしているし、学生たちにはそういうスタンスで接しつつ、そういう機会を提供するようにしている。

改めて、反面教師として胸に刻んでおきたい。
愛情を注ぐことと、過保護に育てることは、似て非なること。
だからこそ、過保護によって失敗を奪い続けることだけは避けたいところ。


今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました!

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