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美術系短大に入っての進路

美大にはいったら

京都にある美術系短大に入ることにきまった。

入学の4月は、阪神淡路大震災直後。
まだ、神戸から電車も全区間走っていなかったと思う。

通学どうするの?という話で、
急遽、短大の寮に入ることになった。
思いがけない寮生活のスタートが決まった。

寮には、同じ高校から同じ染織を受けた友達と一緒に入ることになった。
元から入ることが決まっていた人たちでもう部屋は決められていたから、
友達と私の二人部屋に。

そして、友達と二人で楽しく過ごせるかと思ったけども、
はじめての他人との暮らしでそれぞれのペースがあることに気づいた。
私は母のおかげ?で真面目に朝起きて学校に行ってが当たり前で動いていたけど、友達は違った。

自由気ままに、好きな時に起きて好きな時に食べて寝る。
テレビも好きな時に見る。
そんな暮らしは同室の私にはちょっとづつストレスになっていった。

学校でも友達と同じクラスで勉強するのだけど
真面目にでていない日が増えてきて、会うことも減った。
結局10か月ほど寮生活をさせていただき、電車が落ち着いたころに
自宅に帰った。

友達といえど、自分の常識とは全然違い
考えていること、綺麗と思う事、違うんだ。を身をもって知ったのだった。
結局そのことで、友達とはぎくしゃくしちゃって、数年間離れてしまった。

卒業して数年後また、遊ぶようになった。だけど、なぜもどったのか。
きっかけは思い出せない。

正解が分からない。不安だった学校生活。

染織のクラスの中でもテキスタイルデザインを学ぶコースに入った。
テキスタイルデザインは、布の柄をプリントする。

自分で絵を描き起こし、版を作って、布にプリントしていく。
染料も混ぜて好きな色を作る。
やったことがないことだったから、楽しくて服が汚れるのもおかまいなしに
やっていた。

最初はプリントの作品つくりが多かったけど、立体作品も作ったりするようになっていった。
毎回講評をしていただくのだけど、何を言われるのか。もう心臓が飛び出しそうなくらい緊張する。
先生やクラスメイトの講評も、全部だめだしされているように聞こえてくる。

「何を作れば正解なのか」
は、分からない。
抽象的な世界にモヤモヤしていった。

そのうち就職についてみんなが考えだす時期になる。
なんとなく、この作品をずっと作ることは何につながるのだろう。
こんな制作できる環境を自分で構築するには莫大なお金がかかるのでは?と思ってきた。

アーティストで稼げる気がしないし、その気質じゃない。
まぁ、ぎりぎりまで置いておこう。

とのんびりかまえていたら、あっという間に卒業の時期へ。
とうとう就職活動ゼロのまま社会人になってしまったのだった。

職探し、どうしたらいいんだろう。

時代は就職氷河期と言われていたころ。
何も考えず、親の言われるがままに動いてきたツケがきた。
就職に対して全く何をしていいのか、誰にきいていいのか、動けなくなってしまった。

恥ずかしながら母に聞いて、職安というものがあることを知る。
じゃあ、そこに行けばいいんだ!
と職安へいって職員さんに相談してみた。

学歴を伝え、
「何か作れるところがいいのですが、、、」

「美術系いってたんだものね。分かりました。」

と探してくださった。
探していただいた求人票をみていくと、事務、パートの職務ばかり目にはいる。何か作るような仕事ってほんとに少ないんだ。
私、何か作れるようなところに行けるんだろうか。
不安になったころ、一件看板会社の求人を見つけた。

尼崎市にある小さな看板屋さんだった。

 尼崎市=モーターボート、柄の悪い人がいっぱい
と母から昔から聞いていたので、こんなところにいっていいのか。
震えがきた。でも、せっかくの求人だ。
行ってみて考えよう。

行ってみたら、やはり、暗い汚い商店街を抜けた先にある小さな会社だった。

面接で話した社長は朗らか。
後で考えたら営業を社長がしていたし、話が上手で朗らかなのは当たり前だったんだろう。

いい人そうだし、ここでいいや。
と素直に入ったのだった。

社員は、同時期に入った30歳目前の女性1人と20代男性が2人、社長と社長の弟と社長の父の6人だった。

入ってすぐに、社員みんなが今まで私が会ったことがない生活をしている人たちだということに気づく。

みんなに世間知らずのお嬢様扱いをされ、気恥ずかしい毎日を過ごすことになった。

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