見出し画像

2021年後半、小山田圭吾を通して考えたこと。

 7月からずっと、Cornelius小山田圭吾について考えている(敬称略。普段は小山田君と呼んでいるが、それだと書きづらい)。この夏の小山田へのバッシングの在り方やその後の状況経過、謝罪文や文春でのインタビュー記事は、私自身や社会の在り方について考える為の、とても重要な命題を提起していると思うからだ。答えはおそらく出ないものが多いけれど、真剣に考え続けるべき問いだ。

 私は昔からの小山田ファンというほどではなく、7月までは「ファンタズマ」より後の作品をちゃんと聴いて来なかったが、時間と経済的に可能な限り作品やインタビュー・データを漁った今は、そこそこ熱心なファンと言っていいと思う。小中学時代ずっと、主に言葉によるいじめを受け続けた側であるが、いじめ傍観者側になったこともある。そして、自分はたぶん発達障害(ADHD=注意欠陥多動障害の不注意優生型の方と、やや自閉症的な傾向)のグレーゾーンだろうと思っている。子どもの頃から今まで生活や対人関係に支障を抱えているし、血縁者の何人かにもその傾向が見られる。何せ行動を起こすのが苦手なので診断をちゃんと受けたことはないが。政治的志向はかなり左寄りの中道リベラル派だと思う。そういう人間がこれを書いていることを、最初に述べておく。

 読むのは好きだけれど、自分の考えを整理して伝えるのは下手なので、きっと読みにくい。頭の整理の為の文章でもあるけれど、興味と忍耐力のある誰かにも届けば良いなと願っている。本当は、小山田について論じたものには、もっとすっきりして小さい子どもでも誰でも理解できるような短い文章が必要なのだが(興味があるけど長文が苦手な人は多いと思う)、残念ながら私には書けなさそうだ。問題も複雑すぎる。

 まだこれから気づくこともあると思うので、これは途中経過かもしれない。私は評論家でも何でもないし、当事者全員の証言は揃わない状況もあり、憶測も憶測だと分かるようにして書いた。憶測を書くことで、特定個人や団体を攻撃しようという意図はない。今判明している要素での検証は出尽くしているように思うので、感じたことだけを以下に羅列する。

********************************************************************************

・会ったこともない他人を断罪することの是非(誰にその資格があるのか?)、特に過去の言動を元にする場合、遡って断罪することの是非。断罪よりもどうしてそうなったのかの検証の方が必要では?

・本人がどこまでのことをなぜやったか説明したら、言い訳は卑怯だと非難する人が大勢いるが、それでは今後の社会の為にならないのでは。「どうしてやった?」と聞きながら、こちらが説明しようとすると「ぐじぐじ言い訳するな。反省してない証拠だ」と責める上司のようではないか。

・報道ジャーナリズムの現状は何とかならないのか。全体的な質が急激に低下しているのではと感じる。(大手新聞社の署名記事にさえ見られる初報前と事後の検証の欠如、View数を稼げそうな事件についてとにかく触れればいいという態度のスカスカしたネット記事の多さ、記事のはらんだ間違いなどへの指摘に殆ど返答しない体制、想像を記事にしたりでっち上げまですること。)専門家と名乗る人にも同様の問題を感じる。

・SNSやまとめサイトで、全く検証なしに噂レベルの拡散が広がっていくことの歯止めの効かなさ。やはりView数といいねを稼ぐ為だけらしい言及の多さ(他人を踏みつけてまでの承認欲求?)。コラージュ記事やコラージュ捏造動画なども拡散して本当のように受け取られていく。政治などでもこのようなことがすでに日本でも起こっているが、どうやって誤情報をつぶせば良いのか?

・小中学時代ずっといじめられていた経験からすると、大多数の人は傍観しながらもしばしばいじめに参加して加害する立場のはずで、しかもそれについて申し訳ないけど仕方なかったと述べる人も多い。なのに、有名人が過去にやったいじめの話題となると「けしからん、言語道断」という言葉の嵐が吹き荒れる不思議。本当にいじめを解決すべき問題だと思っているのか?そうでないなら、何目的でバッシングしているのか。この違和感が、今回小山田のことをちゃんと考えようと思った大きなきっかけだった。

・バッシングをしている人の中には、「むしろこいつがいじめられる外見」「こいつがガイジに見える」など、いじめや差別を積極的に助長するような意見も多数みられる。コメント欄を閉じるだけでは、その問題は解決しないだろう。そういう意見に対しては、もっと批判が巻き起こってほしい。

・話題とは関係ない、「前からこいつは気に入らなかった」「こいつの音楽なんて全然興味なかったし世の中に必要ない」などと印象を元にバッシングに加担する人が多数いる。気に入るかどうかは自由だけれど、本人が強い非難を受けているこの状況の時に、それを元に悪口を人前で言ってまわるのは、いじめと全く同じ行為ではないのか。というか、言っている人達はそのことに気づきながらやる確信犯ではないか?

・反論をするファンの中には、冷静に検証する人もいれば彼はいい人で一切悪いことをしていないと主張する人もいて、当然千差万別だ。なのに、少し何人かとSNSでリプライを交わしただけで「コーネリアスのファンは皆こうだからダメだ」という決めつけをする人をネット上で何人も見てきた。ファンと小山田を同類と一括りにする意見すらある。こういう短絡性に対してどう対応すれば良いのか?放っておくべきか。

・雑誌というメディアの在り方はこれで良いのか?(良心的な雑誌も沢山あるけれど)インタビュー記事に対する執筆者の主観の混じり方の程度は千差万別、インタビューされる側や読む人を傷つけないように守るべきという意識が、特に音楽雑誌は形のないものを文字にする分、どうも他のメディアよりも薄い傾向にあるのではないか、それについて冷静に見直すべき時が来たのではないのか?当該記事が出された当初は、取材相手を守るべきという意識が、もしかするとマスコミ業界全体で今よりはそう強くなかったのかもしれない。しかし、私の知り合いの取材活動をしているライターや写真家の人達は、まず取材相手に迷惑をかけないように気を付ける、とよく言っている。

・作品と人格はイコールでは全然ないはずだが、「あの人は人格者だから作品も素晴らしいのだ」といった評価が一般にまかり通っていることは何とかならないのか。ただ、イコールではないけれど、関係はしているはずで、その関係性をどう扱えば良いのやら。

・何かを犯した人の作品をどのように扱えば、傷つく人を最小限に抑えられるのか?作品自体に問題が無い場合、なるべく普通に流通させる方がいいと思うのだが。特に企業の自粛が過度に加速する傾向が残念だ。この事は、報道の自主規制により政治批判が控えられる問題ともつながっている。

・一度悪評判を一気に浴びてその後ニュースから忘れ去られた人が、平穏に暮らせる状態に戻る為には、どうすれば良いのか。冤罪で国との裁判に勝訴した人でも、死ぬまで疑いや非難を浴び続けるようなこの世の中で、記事に書かれた被害者が現在どう思っているかも分かりようがない小山田の状況で。

・小山田は犯罪を検挙されたのではない分、懲役や執行猶予などの期限がつかず、いつ復帰すれば社会的に許されるかの目途が全く立たない。明確に罪を犯して裁かれた方が復帰が早くなる計算で、何だか不公平ではないか?

・何かを犯した(らしい)人を、永遠に表舞台から退場させるという処罰感情は、どこから来ているのか?自分の感情を乱すものを排除してスッキリして、問題の根本から目を逸らすことで、自分だけは無傷で居たいだけではないのか。

・「いい人」「悪い人」なんて本当にいるのか?そうやって人を切り分けることで何かいいことがあるのだろうか?私は人格というのはグラデーションと変化に満ちた波(mellow かつripple なwaves)でできた球体のようなものだと思っている。相手が今見せている一面は、自分の感情や経験というフィルターを通しての表情であって、他人を評価する時は、自分というフィルターをまず見つめるべきではないのか。

・直接の被害者でない人が、会ったことのない人間に対して「あいつを絶対許さない」と言うのはどういう感情なのか、それによってその人は何を得ているのか。私は自分をいじめていた人達が同じ目にあえばいいとは思わない。やられたらどんな気持ちだか想像してみてほしいだけだ。ただ、想像しても、実際に経験するとキツさが全く違うということも知っていてほしい。自分をいじめていた人間を許さないという人もそれなりにいるだろうと思うが、どちらが多数かは決めようがない。許さないと思う人は、自分をいじめた人のことだけを恨んだらいいと思う。会ったことのない相手を恨むのはエネルギーの無駄遣いではないだろうか。

・「あの頃はあれくらい(箱に入れて中にチョークの粉をふりかけたり、箱をバンバン叩いたり)のいじめは普通だった」という擁護は、小山田が受けるべき批判の程度について論ずる時には、必要で重要な話だ。しかし、その話をする時は、「やられた方が平気だったかは別の問題」ということを必ず付け加えるべきだと、いじめられていた側としては思う。同程度の嫌がらせを1日に10回20回と受けていた可能性が十分考えられるし、そうすると全然平気じゃないだろう。今の小山田は、それよりずっとひどい嫌がらせを大勢から受けていると想像されるので、非常に心配である。

・長い間いじめられる側の人間だったけれど、突発的に周囲で行われた別の子へのいじめに対して、驚いてすくんだりして傍観したことがあり、今も繰り返し思い出して後悔している。ああいう時どうしたら動けるのか。

・私がいじめを受けていた間、周りの教師達で、いじめている側に対して働きかけたのは、たった一人だった。(やめるべきという安易な呼びかけにすぎず、当然失敗に終わった。)家族もその他の教師も、私の方のコミュニケーション能力を何とかしろと言ったが、それは私には苦痛だった。まず大変だったねとの共感の一言に飢えていたが、大人達からは一切なかった。今も教育現場の多くで、まだそういう対応がとられているのではないだろうか。私の時は「いじめらる側にも問題がある」発言が、世間一般にまだ認められていた時代でもあった。いじめられる側は「問題」ではなく「きっかけ」を発しているに過ぎない。きっかけを与えられたからといって悪事は正当化されない。反応していじめる側にこそ問題は存在するのだから、そちらの原因を明らかにすることにも重点を置くべきだろう。そしていじめられている人を見つけたら、安易に問題解決を図る前に、まずただ話を傾聴してほしい。

・障がい者への偏見を持っている人は、今まで見てきた中では結構多いと感じる。特に学生は外で差別用語を発しているのをよく見るが、大人は相手を見て言っている感じだ。仲間内でこそこそ言っていれば許されると思っているのではないのか?そこにこそもっと報道が切り込むべきだったのではないのか。本当に世間一般の人達は障がい者差別を問題だと思っているのか?自分とは無関係な問題だと思っているのではないのか。

・私は自分と違う障がいのある人に対して「どう関わっていいかわからない」との勝手な身構えを作ってしまって、障がいのない人と接する時とは違ってしまうのだが、どうすれば構えなしに関われるのか。(クイック・ジャパンの記事を読んだ限り、小山田圭吾は寧ろ無駄な構えが全然ないのが良いと思った。ダウン症の人の外見を笑ったというエピソードを話したのは、病気の発症原因に対する無知もあるし、相手の気持ちへの想像力がなかったのがダメだったと思うけれど。親となった後の彼は、笑うなんてできなくなったのではないだろうか。)

・謝罪文を読んだ限りでは、小山田は過去の自分の問題点や周囲にかけた迷惑について非常に真摯に反省しているように思うが、そのような真面目な精神状態で、作品を創造的に作れるのだろうか?作品に関してだけは、反省を脇に置いておかないと、心が縮こまって、今までふんだんにあった彼のユーモアを失った音楽しか作れない、もしくは発表できなくなってしまうのではないか。ただ、その重圧をも乗り越えられたら、更に素晴らしい何かを生み出せるのかもしれない。

・(私はオリンピックというイベントに関しては、そもそも経済効果も不透明なのに開催誘致への汚職もあり、環境破壊もあり、コロナの感染拡大が云々の前に反対の立場ではあるが)どんなに社会正義と思われる目的があるとしても、その目的の為に誰か個人の人生が潰れてもいいと思っているらしい人間がこんなに多いのは、どういうことなのか?そんな恐ろしい社会でどうやって生きて行けば良いのか。

・「上級国民」ってどういう定義の階級なの?雰囲気だけで判断して、それっぽい人に対してはどれだけ理不尽な攻撃をしても良いと思っている人が結構いるみたいだが、結局は気楽に攻撃できる敵を作りたいだけで、自分の環境の改善からの現実逃避じゃあないのか。

・クリエイターが、取り組み中の作業グループに知り合いの腕のいいクリエイターを紹介することは、ごく普通の商習慣で、趣味嗜好の合うクリエイター同士が普段から交流を深めているのは、ごく自然な現象ではないのか?どうしてそれが、知り合いを引き込んだのつるんでいるだのと非難される必要があるのか。電通が絡んでいる案件は無数にあり、ブラックな問題も多く抱えているのではとは思うけれど、オリンピック関係に関しても、電通を通した起用のほぼ全部が不正という評価は行き過ぎだろう。任用する側の責任者は、オリンピックという事業規模と税金が投入されるということからも、当然任用の妥当性を精査すべきだったし、精査できていたら、小山田の過去の悪評について何らかの対処が必要だと気づいただろうが。

・ファンには反論する資格はないという人がいるが、そうではなく「この人はファンだから安易な擁護に傾きがちかもしれないぞ」という目で反論を精査すれば良いだけではないか。

・小山田と親しい立場の人が擁護的な発言をすると一斉にバッシングしておきながら(中には擁護の仕方に失敗した人もいたけれど)、「擁護する身内がほとんど居ないのは、やつがクズな証拠」と言い切る人達の恐ろしさ。

・私も含め、日本人は議論が苦手で下手な人がほとんどに思える。意見を揃えることが美徳とさえされている。それが一致団結してのバッシングやいじめの温床となってはいないだろうか。しかし国民性というのは変えるというのは困難なので、変わりに自己批評精神を育んだり、グループ外の人に相談して見識を拡げる能力を育てたりすることで、排除行動を抑制できないだろうか。しかし、そういった教育を行う人材をどうやって確保すれば良いのだろうか。

・コロナ禍での鬱屈も、この件でのバッシングの強さに大いに影響している気がする。このまま発散されないと、どんどん犠牲者が増えそう。

・小山田とクイック・ジャパン側はきちんと自分の過去の行動の問題点をさらけ出し反省したように思うが、ロッキン・オンがそれをしないのは(一応謝罪文は出たが何を謝っているかが曖昧過ぎる)、謝罪した人間に対しここぞとばかり石を投げたり自粛に追い込んだりする社会の在り方にも原因があるのではないか?単に社長の経営判断なのかもしれないが。

・加害者(に見える人)の家族や出身校の関係者に対してまで根拠のない悪評を拡げる人間は、一体何を求めて生きているのか?人間のこうした攻撃欲求はどこから来るのか、防御本能か?どうすれば抑制して健全なエネルギーの発散をできるのか。

・年賀状という私信を公開したことを責める人の方は、なぜか小山田を非難する目的でその年賀状の画像を貼って晒すことに抵抗ないようだが、問題となっている雑誌記事の全体を読んでから判断すべきと指摘する側は、著作権の問題や、勝手に記事にされたいじめられた人などを更に傷つけることになるという問題があって、記事全体の画像を貼ることができないという情報の不均衡が起きている。どうすればいいの?

**********************************************************************************   

 今思い出せるのは、こんなところだ。ずらずらと感想を並べただけのものを、色んな人の意見が出尽くした今になって、人に見せて何になるのか、とは自分でも思う。

 ただ、黙っているのは安全な場所に逃げていじめの傍観者にとどまることと同じだと、ずっと苦しかった。それでも書くのがこんなに遅れたのは、本当に小山田はひどいいじめを行わなかったのか、判断がつかなかくて心が揺れ動いていたからだ。まだいくらかは揺れるかもしれない。これは2021年末現在の自分の考えを記した記録だ。noteだけに。

 ヘッダーの写真は、今年の春に私が地元の雨上がりの夕焼けを撮ったものだ。PLフィルターなしの手持ちで撮っているので赤色が弱いけれど、昔から好きな場所の写真なので気に入っている。小山田ファンの皆さんが「#環境と心理写真展」として展開されているハッシュタグ運動に触発されて選んでみた。METAFIVEの「環境と心理」は大好きな曲だ。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?