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征服前の背景について②スペイン-海に出るぐらいしかやることなかった?-

レコンキスタ中に、隣国が力をつけ始める

スペイン(カスティーリャ、アラゴン)は、それぞれポルトガル、フランスと国境を接しています。スペインがレコンキスタを推し進めている一方で、隣の2国は国力を大きく高めていきました。 

フランス:長い戦争を終えて中央集権の強国へ

イベリア半島の隣にある大国・フランスは、1339年から1453年までイギリスと百年戦争を戦っていましたが、なんとかイギリスに奪われた領土も取り返し、辛勝します。
 
戦争終結後、イギリスで王位継承をめぐってバラ戦争が勃発している間に、フランスは戦争によって没落した諸侯や騎士の代わりに王家の権力が強まり、常備軍を設置するなど中央集権化を進めます。 

ポルトガル:エンリケ航海王子がもたらしたもの

イベリア半島内の隣国ポルトガルでは、既にコロンブスの航海より数十年も前から、大西洋に出ていました。彼らが目指したのは南、アフリカ大陸です。
 
当時ヨーロッパには、プレスター・ジョン伝説というものがありました。アフリカ(もしくはアジア)のどこかに、幻のキリスト教国があるという伝説です。時の王子であるエンリケはこれを探すことも目的の一つとして、航海の計画を進めます。
 
結局プレスター・ジョン伝説は実在を確認することはできなかったのですが、この航海によりアフリカの一部の地域を植民地化し、そこで象牙・砂金・砂糖・さらには奴隷などを得て、一大海事国へとのし上がっていきます。 

レコンキスタ成就!! そこで起きる次の課題

一方のスペイン情勢も、15世紀後半に大きく動きます。1492年、イスラム勢力最後のグラナダ王国が降伏。イベリア半島からイスラム勢力が統治している地域が消滅し、レコンキスタが完了します。

信仰心が爆上がりするイベリア半島

前回書いた通り、フェルナンド2世とイサベル1世の夫婦は、ともに敬虔なカトリック教徒でした。この2人によって約800年に渡る闘争を勝利で完結させたことで、「信仰の力すごい」となってイベリア半島の信仰心はさらに高まっていったようです。
 
この直前の1480年代に、王国はローマ教会から異端審問の許可をもらいます。設置された異端審問所は、王国内をカトリックに統一するため、これまでは見過ごしていたユダヤ教徒やイスラム教徒の取り締まりを強化。それにより、国内の富裕層や金融業を担っていたユダヤ人からの財産奪取なども行われたそうです。
 
この異端審問の初代所長を務めたトマス・デ・トルケマダという人物は、元々カトリックでも異端派とされている人々を改宗させることに熱心だったドミニコ会という修道会の会員だったようですが、このドミニコ会は後のラテンアメリカ先住民の改宗活動にも積極的に参加していきます。 

大量の失業兵士があふれかえる

一方で、戦争が終わるということは、そこに駆り出されていた兵士たちの仕事が無くなることを意味します。また、戦場という大量の消費が無くなることで、それを前提に動かしていた経済も停滞します。血気盛んな彼らが路頭に迷うと、今度は国内統制の不安要素にもなりかねませんので、彼らの活躍できる「次の一手」が必要になります。

国を成長させたいが、やれることがない?

加えてレコンキスタにより国土が大きくなり、人口も増えたため、より国力の成長を促していく必要が生じます。が、前回話した通り、西欧はペストや飢饉の影響から立ち直っておらず、東にはオスマン帝国がいて、西欧や地中海での商業の発展を望むことは難しそうです。
 
では領土の拡張を目指せるかというと、上述した通り隣国のポルトガルとフランスは力をつけており、海を挟んだアフリカも既にそのポルトガルが要衝を押さえています。
 
そんなにやれることがない状態のスペインでしたが、ここで政府は以前からコロンブスという商人が持ちかけていた「大西洋を西に進んでインドと直接取引する新航路の開拓」という計画に乗ることにします。 

商人コロンブスについて

コロンブスはイタリア出身の商人と言われていますが、明確な出自はあまりよく分かっていないようです。いずれにせよイタリアではオスマン帝国侵攻の影響なので大きな商売のチャンスは望めないため、彼はポルトガルに居を構えます。
 
そこで様々な知識を学び、また当時すでに一般的であった地球球体説も組み合わせて、ヨーロッパから西に進めばインドにたどり着くという西廻り航海を着想。ポルトガル、スペイン、フランス、イギリスなど様々な国に提案を持ちかけていました。
 
スペインには1486年に最初のプレゼンを行い、イサベル1世は興味を持つものの王国としてはのらりくらりと結論を先送りした挙句、1491年にはいったん否決されます。が、レコンキスタが成就してスペインの財政に余裕ができたこともあり(ユダヤ人からの財産没収も役に立った?)、1492年に一転して提案が了承され、4月に契約交渉が行われます。
 
コロンブスは借金を抱えていたといわれていて、この交渉において彼は成功報酬にこだわります。その結果、新たに発見された土地の副王および総督の地位を保証されることや、そこで得られる利益の1割を自身の取り分とするなどの契約を王室と結びます。

新大陸発見。コロンブスとスペインの欲望が加速する

1492年8月、3隻の船と120人(諸説あり)の乗組員でスペインの港を出港したコロンブス一行は、紆余曲折ありながらも10月には現在のバハマにあるサン・サルバドル島に上陸します。
 
彼らを歓迎した先住民・アラワク族が小さな金の耳飾りをつけていたことで、コロンブスは金脈の存在を確信。交流もそこそこに金のありかの聞き出しや略奪行為などを行いはじめます。そして他のいくつかの島にも立ち寄り、その成果を報告するため、39名の乗組員を残してスペインに帰国します。
 
帰国後、彼は虚実入り混じった魅力的な成果報告を行い、二度目の航海に向けての資金援助を交渉。黄金と奴隷を持ち帰るとまで報告し、政府もこの計画に乗ります。
 
この航海では17隻の船と1,200人の乗組員(諸説あり)が参加します。ここには船乗りはもちろんのこと、レコンキスタを戦った兵士、恩赦を与えられた受刑者、金脈を期待した坑夫、新天地での新たな農地経営を期待した農民など、 “スペインでは将来を期待できなそうな人たち”も多くいたようです。
 
明確に植民地化の意図を持った彼ら征服者たちは、翌年に再び航海を始めます。ここからスペインの本格的な征服活動が始まります。 

次回

その頃、新大陸は
どんな状況だったのか

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