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天職にたどり着くまで(学生編中学から短大)

中学2年で武士道に目覚め、勉学に勤しむ。

中2から志して始めた勉強は、我流ながらすぐに成果に反映され、オール3で体育が5のような成績から、オール4、5がちらほらみたいな成績に伸ばすことができました。校内順位的には当時300人前後の生徒数の中20番台から30番台前後でしょうか、まあそこそこの成績でした。
しかしながら、家庭環境を変えられる術を持たない私は、早く社会に出て自立して生きていくためにはどうしたらよいのかという観点しかありませんでした。
しかし、親を恨んだりする気持ちは一切ありませんでした。
それは、幼い時からの疑問、両親との考え方や思考について、全く合わない、違い過ぎることについて、学びを進めれば進めるほど明確になってきて、親の状況はどうあれ、いち個人としてどう生きていくべきかということが意識の中心を占めていたためでした。その頃には、歴史の本に飽き足らず、哲学や科学、人材をマネージメントする本などにも手を伸ばし、当時の事を思えば随分と背伸びした中学生だったように思います。

この頃より今まで、読書により内面に気づきを与え、行動してみて周囲の反応や、社会との適合を図っていくという少々大げさではありますが、私の人生の基本行動原理みたいなことが決まっていったような気がします。

さて、家庭教師をやっている私自身の高校入試はどうだったのか。
これは、当時自分の中では何の疑問もなく高校を出て就職することを目的に、近くて学費が安いところ、この一点で進路を選択しました。
親にお金をかけさせられない、あてにできないということから、いわゆる滑り止めと言われてきた私立の高校の受験もせず、進路面談ではこの内申点なら無試験でも受かるんじゃないか(事実そんな事はありませんが)と言われた県立高校に進みました。
しかし、この選択は今思えば、視野の狭かった当時の自分に人生の唯一の悔いを残しました。
端的に書きますと、何をやるにしてもテンションが周囲と合わない、面白くない、1年に1回は辞めたくなる、そんな時間でした。
しかし、当時の自分は振り切ってそれを行動に変えていました。
つまらないと思うのも自己責任、そんな自分に負けていられない、そんな時間を過ごすわけにはいかない。こう考え、とにかく時間を詰めて暮らそうと決めました。
具体的にはこんな感じでした。
①クラブ活動(剣道)を全開でやる。
顧問は素人だったので、指導者がいないということを理由にしないで我が道を切り拓こうとしました。
自分なりに研究した結果、竹刀のトップスピードを上げ、フォームを安定させることが必要だと考え、普通の練習に合わせて朝イチで学校に行き素振り用の重い赤樫の木でできた木刀を1000回振って授業に臨む。これは、自宅に帰ってから1000回足して1日2000回素振りをする事を決めて実行しました。結果は大正解で、毎日2000回振れる体は強靭なものになり結果にも繋がりました。
②学問も全開でやる。
自宅学習を1日4時間前後という時間を自分に課し、学校の授業もあてにせずというか基準にせず、予習状態にして苦手教科も克服できるように立ち向かいました。とにかく、言い訳をする自分を排除しようと努めてみました。
結果は、当時苦手意識が強かった理数系科目(今ではとても好きですが)に関しては、自力でいけるとこまででしたが、得意の文系科目は模試で県で2位というところまではいきました。
③自分で使う資金を得る。
当時無許可でのアルバイトは、学校で禁止されていましたが、美味しい焼肉屋さんを始め、大型電気店、駅前での漬物売りや、リゾート地での短期バイトなど許可なんて取ったこともなく、タイミングが合えばアルバイトをしまくってました。たまに学校の先生にもバイト先で出くわしましたが、目をつむってくれていました。
読みたい本がほしい、洋服がほしい、靴がほしい、そう思っても親に小遣いを請求できない状況ならば自ら稼ぐ、選択肢はありませんでした。
④生徒会もやらせて頂きました。
そんな毎日をおくっていたため、とにかく時間を有効活用する手段をコツコツ編み出していたのですが、生徒会の担当の先生からお誘いが熱心で休憩時間になると何度も来てくださるもので、1期だけ副会長をやる約束で受けさせて頂きました。結局、もう1期生徒会長もやらせて頂きました。そういうことに積極的に参加する生徒が少なかったせいで私のところに偶然話を持ってきてくれたのだと思いますが、今思えばとても良い経験で感謝しています。
したがって、私の高校生の日常はこんな感じです。
ほぼ一番乗りで自転車で35分くらいの学校に登校
→1000回木刀振り
→授業を受け
→生徒会とクラブに参加
→そのままアルバイトに自転車で直行
(焼肉屋さんの美味しい賄いで夕食を済ませ)
→帰宅
→風呂に入ったのち素振り1000回やって勉強と読書
これの繰り返しでした。
必要以上に忙しくしていた日々、学校に対して、周囲に対しても違和感を感じ続けた日々。その時のどちらかというと嫌な思いが、家庭教師を職業とした時に同じ思いを生徒さんにさせたくないという思いの強さを生み、今に活かされている事を思えば、人生の中ではプラスだったような気がします。

そして、そんな時間制限パンパンの生活を続けていると、その先の進路選択の時があっという間に訪れました。
このタイミングは、バブルの最後期で当時の進路指導の先生の話を思い出すと就職先は1人に対し20件以上話が来ていて、多すぎるから関係する企業だけ紹介するというくらいで、引く手あまたといった感じで選びたい放題という感じでした。
その中で小さい時から仲良くしてくれていた近所のお兄さんでトヨタグループの某大手企業で働いている人がいたので、その人から聞いた話にのっかり、そこに入社することを早い段階で決意していたため、迷わずそこに入社したいの一点張りの自分がいました。進路指導の面談では、この成績ならどうして大学にいかないのか、他に選択肢があるのではないかと親切に促してくれましたが、一点張り、迷いなし、頑なにそこに入るという決意を示すのみでしたが、ある日、進路指導の先生がこの企業がやっている給料をもらいながら勉強できる学校があることを知らされました。
そして、この高校からはまだ誰も受けたことがないということを教えてもらって、例えその試験に落ちたとしても成績が十分なので学校に行けなかったとしても就職の内定は取れると断言してくれました。
じゃあ、受けてみるかと安易な気持ちで受けてみたら合格、晴れて思いも寄らない形で給料を頂きながら勉強をさせてもらえて、同時に念願だった家を出て寮に入れることが決まりました。
その学校は、今もありますが、卒業者の位置づけとしては、たくさんある工場や現場の中堅幹部社員養成所といった形の名称は短期大学でした。
それまでの念願が叶い、人生の既定路線、大手企業に入社して、副次的に付いてきた短大での寮生活、いわゆる安泰の方向へと進み始めた人生は、思わぬ方向へと2転3転どころではない激動の変化を帯び続けます。
それは運命でもありますが、自己選択の結果、我ながらおもしろき人生です。

ここまで、天職にたどり着くまでという題材で書き進んできました。
端的にその事をかいつまんでいけば、もっと簡潔に表現することも可能でしすが、齢50を過ぎ、人生を文章を書きながら振り返ってみた時に、天職といえるこの家庭教師という仕事に必要な要素をある一定時期に手にしたわけではなく、結構長い年月をかけて少しずつ体得してきたことに気づきました。
武士道とは死ぬことと心得たり
という言葉がありますが、そのうち私の脳がうまく機能しなくなることも十分考えられます。いつ死んでしまっても悔いのないようにどこかに書き記す機会を探していたのかもしれません。
このnoteという素晴らしい場所をお借りして、結構激しめの我が人生をこの題材と共に振り返ってみることにしました。
全て実話、ノンフィクションで今後もじわりじわりと書き綴ってまいります。
読んで頂いている方々、応援に感謝いたします。
今後ともご贔屓のほどを






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