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留学生

日本を去ったのは十八歳の初夏。
「留学」を言い訳に必要なものを次々とスーツケースと段ボールに詰め込んで、この国から逃げる準備をしていた。画材、スケッチブック、何年もため込んできたスクラップブックたち、日用品はもちろん、自分の身の回りに置いておきたいものを必死にかき集めていました。私が留学という道を選んだのは生まれ育った国にずっといて、視野がどんどん狭くなってきているような気がしたからでした。インターナショナルスクールに通い、色んな国籍や文化、バックグラウンドの人間と接し、友達になってきたのに、それでも物足りなかったです。人間して成長きるのか?いや、このままだと父が言ったように「適当に日本の大学に通って授業中ずっと携帯をいじって、適当に就職してOLとして過ごす毎日」が来てしまう。逃げたい。逃げなくては。逃げられる手だてがあるのならば。
 
アメリカのアートスクールでは度肝を抜かれました。
まず、自分のスケールの小ささ。
スキルの低さ。
センスはあると言える…のだろうか?
美術が大好きで放課後も美術室に籠っていたくらいアート触れていたのに、全然ダメだ。壁に何度もぶち当たり、ぶっ飛び、どうにかしようとまた壁に向かって突進する。
 
信じられない人生を生きてきた人とも友達になりました。
自分で探し続けていた「自分」のアイデンティティを手探りで探す毎日。
私は将来どんな人間になるのだろう?
 
そんな日々が学士号を修得するまでの四年間、修士号の三年間、そして社会人としての一年間続きました。大学院時代にはセックス・ワークやジェンダーをテーマに研究を重ね、色んな表現手法を用いて自分の伝えたいこと、伝えるべきこと、知らせたいことをデザインという枠を使い表現する日が続きました。ここではアーティスト、デザイナーである前にリサーチャーとして日々を過ごしていたような気がします。交換留学(留学中に交換留学?)で過ごしたアムステルダムでも新人ライターのように自分の足を使ってリサーチを行いました。
 
アメリカやアムステルダムで過ごした日々はどんなことがあっても他の経験と交換したくはありません。私を「私」が形成した日々。愛する人たちに囲まれた日々。私のバックボーンができたのは、留学中の時のことでした。

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