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閉じたページの向こうには光が射しているかもしれない。

□イラスト提供 いまがわゆい様( @othellolapin )□

思うようにならないなら、いっそ嫌いになった方が楽、というのは真理だろう。

本が好きで本屋で働くことにしたけれど、思うようにならないことが多過ぎて、いっそ嫌いに、無関心になってしまった方が楽かなと思っている。
興味はあっても生活するのに手いっぱいで自由に本を買うようなお金はない。
商品の仕入れも入れ替えも大人の事情が絡みまくって、裁量はどんどん削られていく。
ただただ並べて販売するだけになっていて、なまじ愛着があるだけにその感情そのものが煩わしくなっている。
なんの興味もなければ、もっと淡々と気楽にやれるだろうに、とついつい思ってしまうのだ。

この言葉を言ったところで栓がないので、決して口に出したり心の表層に浮かべたりはしないけれど、『つまらない』という思いが奥底にくすぶっているのは気づいている。何言ってんだと言う冷笑の下に封じてはいても、だ。
所詮は時給働き。決められた時間だけ職場にいれば、成果を求められることもなく一定の給料は振り込まれる。それで翌月までは食いつなげる。
身を置いた業界同様、人生も自転車操業だ。

一方で、働き始めた頃のように、生き生きと仕事をしている“書店員”と呼ばれる人たちのように、もっとのめり込んでもっと一所懸命に取り組めば、くだらない愚痴や悩みから解放されるのではないかという思いもある。
どうせ働かなければならないのなら、そしてそれが今の場所しかないのであれば、真摯に向き合った方がいい。
逃げ腰でイヤイヤやっているから、余計にめんどくさく重苦しく感じるのだろう。

上記の言葉同様、軽々しくは使いたくはないけれど、その先には久しく見ないようにしていた『楽しい』があるんじゃないかなんて淡い期待もある。
これもまた、くだらないことを、という苦笑の内に閉じ込めているつもりで。

こういうことを理屈で考えている以上、僕のそれは本物ではないことも知っている。
本当に好きな人ならこんな雑念に囚われることなく心と手を動かして仕事をするのだろう。
もちろん全てが順風というわけにはいかないだろうし、雇用条件なんて似たり寄ったりだろうから、同じような悩みもあるのだろう。
それでも、この瞬間があるから、という一瞬を積み重ねて次へ向かって仕事をすることができているのではないだろうか。

今の僕は、知識として、ひょっとしたら体験としてもそれを知ってはいるけれど、それをモチベーションにすることは避けている。
おそらく、成功体験よりも挫折に足を引っ張られる性質で、さらに根性もなければ好きの力も非常に中途半端なので、何かに期待をするとあっさりと折れてしまう。実際、それで一度はポキリと行ってしまったわけだし。
そうしてみると、現在の「すっぱいぶどう」状態は、防衛手段の一つなんだろう。そう考えれば、このストッパーを取り去ることは怖い気もする。
環境を言い訳にして、できない/やらない理由を積み重ねて、その壁の前で座り込んでしまえば楽なのだ。小さなストレスからは逃れられなくとも、その場限りの些細なこととして切り捨てることができる。
堕落、いや堕楽とでも言うべき合理化だ。低い方に流れていれば、深い悩みを持つこともなく、一時の平穏は訪れる。

でも、この状態には先がないことも知っている。
年齢的に考えても、自転車はいつまでも漕げないのだ。
それも分かっている。

環境のことを言うなら情報を得られることを活かし、同じ積み重ねるのならば知識を蓄え、没入してしまえばいい。
それができれば、他者のことや日々の些事などにも目が行かなくなり、多少なりとも見えるものが変わるのではないか。
取り巻く世界はたやすくは変えられなくとも、自分の目に映る世界は変えられる。
それは認識と意識の問題だ。
ウダウダ言う前にポップの一つでも書いて、好きな本の前に掲示すればいい。それだけでも変わるものはありそうだ。
視線を上げろ、前を向け。世界を塗り変えろ、などと鼓舞したくなる時もある。

それでも、やっぱり思ってしまうのだ。そんなことをして何になる。そんなことがいつまで続くのか。
今の仕事プラスアルファをやったところで身入りは変わらない。
むしろ達成できないことが生まれることで、無力感や苛立ちの原因を作るだけになるのではないか。
そのデメリットをおしてまでやる意味は? 価値は?

分かっている。
こんなことを考えているからできないのだ。
本当に好きな人なら…以下同文。

もっと好きになるか、いっそ関心を失うか。没入か忌避か。
こんな極端な二者択一である必要はないけれど、性質的に上手にフラットになれない。

それでも、好きが入り口になければ、今この場所にいることもなかったのだ。この感情から逃れることはできるだろうか。
どうせ捨て去ることができず、いつまでも正であるべき感情に足を引っ張られるという自己矛盾を抱えるのであれば。

無関心を装って義務にするのではなく、割り切った仕事の先に好きが待っていると考えてみてもいいのかも知れない。
やることさえやっていれば、割と自由は許される仕事だ。
真面目に取り組んでいれば、ひょっとしたらその先があるかも知れない。実際、今より熱意があった頃には、もらった言葉を嬉しいと感じることもあったし、その頃に出会ってくれた人たちもいる。

あまり盛り上がって、のちのち落ち込んだり恥ずかしくなったりするのも怖いので希望的観測はこの辺にしておくとして。
毎日でなくても、週に1日でも、何か一つ、できることを探してやってみようと思う。
妙な下心や色気を出すわけでもないが、今の狭い世界の中で膝を抱えているくらいなら、まだ見ぬ人、ここではない場所に向けて仕事をしてもいいのかも知れない。
それがどこかに、何かにつながるかも知れない。
どうせ失敗してもこれ以上給料は下がらないし、何か失うものがあるわけでもなし、やってみても損はないだろう。

読めば読むほど恥ずかしいし、この思いが来週まで持続しているかどうかは分からないが、と言い訳をしつつ、ひっそりと置いておくことにする。

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