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Art Outbound Digest Vol.21 「アルフォンス・ミュシャを2023年にファインアート視点でどう評価すべきか」

日本生まれ日本育ちのアーティストがどうやって欧米に売り込んでいくか問題



今回は本来なら日本生まれ日本育ちの現代アート作家が国外に売り出してゆく際に、基本的なブランディングとしてどのような考え方を採るべきかという話をしようと思ってました。

というのはですね、前回も課金ゾーンでちょっと触れましたけども、すっげえ単純な話、西欧や北米で生まれ育っていて文化資本も社会関係資本もあるコーカソイドの作家と同じところで戦ったら、日本人は勝てるわけないんですよ。ええ。

まず敵は立地で有利。これまでにもこのサブスクで見てきましたけど、MFA取得直後にいきなりロケット点火してメガギャラリーと契約するような若手はたいがいNYかロンドンでMFA取ってます。あるいはシカゴとか。ベルリンとか。

奴らは語学だって強い。なんせ母語や母語と大して変わらん第二言語が英語だもんな。

コーカソイドだから人種差別も受けない。

住んでいる町に古代ギリシアから現代までの名品がわんさかある。

NYもロンドンも(あるいはベルリンやアムステルダムやコペンハーゲンやパリも)、一流のアートスクールが群雄割拠しているから、国内でだけブランドの希少性がインフレしてるアートスクールに入学して満足して勘違いして上野のお山の大将になってまう危険性も無い。

公募に採択されたときの作品の運送費も安い。

国際公募だけでなくNY在住とかUK在住という条件での公募もいっぱいある。

つええ。

こんな条件のライバルに真っ向勝負で勝てるのは、まさしく桁が違う才能と運を揃えた人だけで、単純に言って例外です。

私はマーケティングの話をしている。

マーケティングであれば、勝てる可能性の高いゾーンを探してニッチで市場を作り、ライバルが参入しづらいシチュエーションを作り上げてという戦略を構築するのが当たり前である。

だからね。

という話を考えてたんだけど、植村恒一郎大先生が凄い勢いで炎上していたので、今回はそっちにします。

経緯は実にしょうもないです。ネトウヨと植村恒一郎が萌え絵を巡って言い争いになって、植村恒一郎がロールズによると自尊心は公共財で保護すべきものだから萌え絵を公共の場に出すのは制限すべきとか言い出して。植村恒一郎がバトってる相手も軒並み私がミュートやブロックしているアカウントなんで目に入りづらかったわけですが。

Bing AIに呪文かけて描かせたやつ。

あ、ちなみに「自尊心は公共財だから保護すべき」はロールズ言ってません。

言ってません。

ロールズが言ったのは、自尊心も基本財に含まれるという主張。

公共財は経済学の用語です。Public Good.

https://www.ipp.hit-u.ac.jp/satom/lecture/tufs/2018_tufs_economics_note06.pdf

基本財はロールズ独自の概念。Social Primary Good.

Social primary goods are, according to Rawls, those goods that anyone would want regardless of whatever else they wanted. They are means, or resources (broadly conceived), and this approach says that we should compare holdings of such resources, without looking closely at what individuals, possessed of heterogeneous abilities and preferences, can do with them. Rawls (2001, pp. 58–61) specifies the social primary goods in a list as follows:

https://www.cambridge.org/core/books/abs/measuring-justice/introduction-social-primary-goods-and-capabilities-as-metrics-of-justice/6D686587D99EDFC3E8CF368F57C5D491

ま、単に名称だけ勘違いしていたと善意に解釈するとしても、その先でも適当なことを言って突っ込まれている。

「次は法律でいう「利益均衡論」で判断すべきでしょう」も、何でそうなるのか理路を示していない。

この手の小技に引っかかっちゃいけません。

ちゃんと勉強しましょう。考えましょう。我々は。ミメーシスとか遊びとか一流とかのタームも、ちゃんとプラトンやアリストテレスの美学(ミメーシス)、シラーやガダマー(遊び)、一流(たぶんカントの天才の概念をリミックスしてる)など、専門の人の解説書を活用しつつ原典を読むのが良いです。類型的だの真の芸術だのは、ま、19世紀っぽい雰囲気を楽しむくらいしか今では使い道がない考え方かなと思いますけどもね。さらっておくのは悪くない。

しかも植村恒一郎先生ったら、よりによってフォトリアリズム絵画を持ち出してミュシャにぶつけてきた(笑)

フォトリアリズム絵画は1970年代にちょっとだけ流行って消えた、傍流も傍流、ファインアートの歴史の本に出てくることは99%無いくらいのどマイナーな流派でしてね。

20世紀以降のファインアート史をちゃんと勉強するなら必携とされるこの鈍器本。アール・ヌーヴォーはそこそこ言及されてるけど、フォトリアリズムなんてどこにもあらしませんで。

名指しして申し訳ないけど植村恒一郎センセが名前を出している画家さんたちもCV(履歴書。ファインアートの画家はこれが非常に重視される)を拝見した限りでは、ファインアートの画家としての実績だけ見てもミュシャのが全然上です。

そらこうなるわ。

さて。

ここまでは全部余談。

こっからが本題だ。

ミュシャをどう評価するかの問題。

一流とか二流とかの用語はこういう場合には使わない方がいいです。どういう評価尺度で判断するのかがはっきりしないし、その尺度を用意するとしても、その尺度の妥当性をどう担保するのかが難しい。

難しいというよりは、誰もが納得する尺度は作れない。

客観的なもの、例えばそうだな、検索エンジンで検索されている回数とか、オークションレコードや平均落札価格、個展(Solo Exhibition)の開催数とか入場者数、グッズ売り上げ、本の売り上げなどなど、そういうものを使えば、ビジネスとしてのアルフォンス・ミュシャと、植村恒一郎が推すシャセリオーの比較は出来ますよ。もちろん。

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