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ツイッターは議論に向いていない?

こんにちは、ツイッターの名前がXになって久しいですが、ツイッターってやっぱり便利ですよね。
名前は変わったんですけど、やっぱり自分にとって馴染みがあるのはツイッターという名称なので、しばらくはツイッターという呼び方で通したいと思っています。

そんなツイッターについて、よく言われることがあります。

ツイッターは議論に向いていない

記事のタイトル通り、ツイッターというツールは議論に向いていないとされています。
その理由としては、1ツイート当たりの文字数が少なくて本意が伝わりにくいということなどがよく言われます。

確かに、文字数が限定されている分、意図に反して文字を要約せねばならないので、結果として議論に支障が出てしまうというようなことはあり得ると思います。

ただよく考えてみますと、最近のツイッターは課金さえすればこれまでの文字数の制限を突破できます。
それでもなお、ツイッターは議論に向いているツールとして語られるケースは少ないように思います。

もちろん、ツイッターに課金までする方が少ないということもあるのかもしれませんが、文字数に制限が無い人たちに限れば、文字数の制限がなくなったことによって議論が成り立つようになったという例が見られても良いはずですが、少なくとも私は、そういう話を聞いたことはありません。

私はかねがね持論を持っています。
それは、ツイッターは議論に向いているということです。

ツイッターでも議論は成り立つ

自慢にもなりませんが、私は相当ツイッターをやりこんでいます。
その中で私自身は、ツイッターが特別、議論に不向きだとは感じたことが無いのです。
もちろん、ツイッターにおいて議論が成立しないということはしばしば存在します。しかしそれが、ツイッターだから生じている固有の現象だとはどうにも思えないのです。

目的設定について認識が共有できていない

まず、ツイッターで存在する多くのやり取りは、明確な目的設定について、何らかのすり合わせが行われたうえでなされているものではないということです。

最近、性的合意というワードがよく話題になりますが、議論するにあたっても明確な合意がなされることはまれであり、自然偶発的な流れで議論が発生するというケースが多いのです。

A「新しい視点をもっと知りたいので、〇〇の議題について議論を行いましょう」
B「議論の目的や議題についての認識が共有できました、議論を始めましょう」
A「認識が共有できて良かったです。よろしくお願いいたします」
B「よろしくお願いします。ではまず、あなたは〇〇についてどういったお考えを持っていますか?」

以上のようなやり取りをしている人、あなたは見たことがあるでしょうか?
少なくとも私は、上のようなやり取りをしている人は一度も見たことがありません。
しかしよく考えてみれば、目的意識の共有や議題の明確な共有も無いまま、なんらかの議題について意見を戦わせるという状態がおかしいのです。

もちろん、実際に上のようなやり取りを行うべきであるという話ではありません。
しかし、ツイッター自体が独特な性質を持っているという面については目を向けなくてはなりません。

ツイッターの性質

ツイッターは文字によってコミュニケーションを図るツールです。
しかし、そういった見方をする人は少ないのではないかと思います。

実際にはよりフランクに、いわゆる口語的なコミュニケーションがなされる場合が多いのです。
それは、非言語コミュニケーションとも言い換えることができるでしょうか。
非言語コミュニケーションにおいては、先ほど上げた例のようなまどろっこしいやり取りは、基本的には行われません。

いわゆる暗黙の了解において、口に交わさずとも目的や議題を共有できており、そのうえでコミュニケーションがなされるということが一般的なのです。

繰り返しになりますが、ツイッターとは文字によってコミュニケーションが行われるツールです。しかし実際には、非言語コミュニケーション的な空気の中でコミュニケーションが行われることが多いのです。

議論をするにしても、あくまでもその場の空気や雰囲気によって自然発生的に行われるのが普通であり、これは、文字媒体でありながらも口語的なコミュニケーションの考え方が必要とされるという意味で、ツイッターが持っている独特の性質であると言えるのではないでしょうか?

議論が成立するかは暗黙の了解次第

ツイッターにおいて、口語的なコミュニケーションが求められる以上は、先ほどの例のような形で議論を始めるという形は現実的とは言えません。
そんなことをしてしまっては、ツイッターという世界においては変人のように扱われてしまうのではないでしょうか。

より正確に言えば、普段と同じ非言語的コミュニケーションを文字を使って行っているだけのツイッター世界においては、いちいち、何から何まで言語化するというスタイルはコミュニケーションが下手であるという評価をされてしまってもやむを得ないことなのです。

ともあれ、ツイッターにおいて議論を行う際には、自然偶発的な流れを経ることが一般的です。そのため、言葉にはせずとも相手がしたい議論の目的や議題を見極めるという能力が求められます。

レスバと視点交換

一口に議論と言っても様々です。
どちらが正しいかを白黒つけるいわゆるレスバのような議論もあれば、あくまでも、双方の視点をそれぞれが開示して、視点を交換することに特化したコミュニケーションというものもあり得ます。

私の場合は、明確に後者です。
議論の勝ち負けが意味を持つ場合というのも確かに存在すると思います。
しかしツイッターにおいては議論の勝ち負けや結論というものは、大して意味が無いと考えています。

レスバを行う意味

それは基本的に、ツイッターという空間における意思決定(結論)が、なんらかの社会的な効力や権利を有するものではないからです。
ツイッターにおいてなんらかの結論が出されたとしても、それが実務などに影響することは殆どありません。

仕事や業務の場においては、白黒つけることが会社の意思決定にも絡むわけですから、結論を明確に出すことはそれなりに必要になると思います。
ただ、ツイッターでの議論などは、基本的には顔が見えない一般人同士のやり取りでしかありません。

そこで何らかの結論が付いたとしても、その決定によって現実的に何かが進むということはありません。
影響があるとすれば、そのレスバに勝つことによって、ネットの仲間からの評価を得られるということです。いわば、レスバを示威行動の場として用いる場合には、レスバはその効力を発揮するでしょう。

その他には、自己肯定感を満たす場合などにも用いることができます。レスバで相手を論破することによって、自らの知識や論破力の高さを確認し、自身を肯定することが可能になります。

レスバの弊害

自身や身の回りからの評価だけを考えれば、レスバは決して無意味なものではないでしょう。
しかしそれは極めて自分本位な考え方です。
いわば、議論を自らのステータスの為に利用しているわけでして、その議論には公共性というものは存在しないと言えます。

そして、論破する側は良いとしても、論破された側は強い憎しみを抱くことにもなります。
論破されることは悔しいし、腹立たしいことです。
結果として負けた方は強いストレスを感じるということにもなります。
そのストレスの発散の為に、今度は違う誰かを論破するということを行うようになります。

そしてそれは無限に繰り返され、ツイッターという場において憎しみの連鎖が生じてしまいます。
これでは意義どころか、ツイッター全体のモラルハザードにも繋がるわけで、示威行動の為のレスバというものは、公共という視点から考えた時にはむしろ有害であるとも言えます。

結論を出そうとしない

という考え方が私にはありますので、私はツイッターという場において、何らかの結論を出すようなコミュニケーションは基本的には行いません。

なにより、そう簡単に相手の出した結論を変えることなどはできないということもありますし、先述の通り、ツイッターの場における結論など、殆ど公共的な価値を有していないのです。

結論は論破で無理やり変えられるものでもないし、変える意味も基本的にはありません。
であれば、各々が結論を出すために必要な視点を、互いに共有しあうという形の議論を行う方が、より公共的な意味を有しています。

結論はあくまでも、自分の頭の中で考えたらよいのです。
その中で、他の人の意見にも触れてみることによって、都度都度、結論を再構築(セルフメンテナンス)していけばよいのです。
他の人の意見を聞くということは、自身の意見を曲げることではありません。
自分の意見を曲げずとも、誰かの意見を聞くということは成り立ちます。

意見の違い=前提条件の違い

意見の違いは、前提条件の違いでしかありません。
同じ物事であっても、Aという前提条件では正しいということがあっても、Bという前提条件においては誤っているということがあります。

それぞれが優先する前提条件が異なるために、同じ物事について考えていても、異なる結論が導き出されることがあるということです。

考え方の違いは、あくまでも前提条件の違いなわけでして、それぞれ、絶対的に間違っている考えを持っていることは断定することは難しいということです。
もちろん、前提条件の違いでしかない以上は、絶対的な正解というものもあり得ません。

相手の前提条件を知る

まず、考えを一致させようとする必要はありません。そこに折り合いなどは存在しない以上、相手が考えている前提条件を知るということが大切です。

人間は往々にして、自身が考えている前提条件(価値観)が全てと思い込んでしまうことがあります。それこそが、コミュニケーションや議論が成り立たない最大の原因なのではないかと思います。

自身の考えは、公共的には相対的な前提条件の一つだということを念頭においてコミュニケーションや議論を行うことが、重要という話になります。

その中で、誰かの考える相対的な前提条件を知ることによって、自身の考えにとらわれない、より解像度の高い形で問題を俯瞰できるようになるのではないかと思います。

絶対的な考えを捨てる必要はない

自身の考え方は相対的な前提条件の一つであるということを記載しましたが、これはあくまでも公共の場における話に過ぎません。
他者と関わりを持つときに、自身は相対的な存在として臨むことが、無用なトラブルを回避するためには有効であるという話です。

自分の軸を捨てる必要はない

客観的には相対的な意見だとしても、あくまでも自分の中での明確な軸というものは捨てる必要が無いのです。
自分の中ではハッキリと、自身のアイデンティティを大切にしたらよいと思いますし、それを絶対化すべきであると思います。

自分の頭の中での扱いと、公共の場における自身の考えの扱いというものを知り、使い分けていくことが何よりも欠かせないということです。

議論というものはむしろ、自身の明確な軸というものがあってこそ高い効果を発揮します。それは他者にとっての相対的なものの見方の一つであって、それによって知見を深めることができるということがあります。

自身の明確な軸が無いままに結論を出さない議論をしていても、結局は長いものに巻かれるだけの事なかれ主義のコミュニケーションにしかなりません。
これでもやはり、公共性のあるコミュニケーションとは言えません。

自他の境界をハッキリと認識して、自分の中では絶対視他者と関わるうえでは相対視という感じにコミュニケーションを模索することによって、それぞれがそれぞれの意見をアップデートしていけるのだと思いますし、それこそが民主主義最大の利点と言えるのではないでしょうか?

ツイッター以前の問題である

この記事の本題はあくまでも、ツイッターが議論に向いているのか否かというものでしたが、そもそもツイッターどうこう以前に我々は議論というものができているのかという点に尽きると思います。

普段の非言語的コミュニケーションにおいては、緻密な言語化を行わずとも雰囲気によって誤魔化しがきいている部分がそれなりに存在すると思います。

その誤魔化せている部分が、ツイッターという独特な媒体によって可視化されるだけの話であって、ツイッターを使うことによって急に議論ができなくなっているわけではないのではないでしょうか?
ツイッターを使うまでも無く、我々は議論ができていないのではないかと考えられます。

普段できないことは、ツイッターを使ったからと急にできるようになるわけではありません。
ツイッターは議論をできるようになるための魔法の道具ではなくて、普段の口語的なコミュニケーションを言語を用いて行う道具に過ぎないからです。

議論が成り立たないという問題が存在するのだとすれば、ツイッターという媒体の良しあしではなく、それを用いる我々自身に原因があるのではないでしょうか?

結び

ということで、記事を終えたいと思います。
なんとなく書き始めた記事ですが、思いのほか文字数が増えてしまいました。
最後までお読みいただきましてありがとうございました。

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