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社会における論理設計思考

私はシステムエンジニアの立場から、人間の知性について考えています。

知性には様々な性質や能力があります。身の回りで起きたことを認識する能力や、それを抽象化して整理する能力、そして、それらの過去の経験的な知識から未来を予測する能力などです。

知性の持つ能力のうち、私は設計能力の重要性に着目しています。設計能力は、受動的に理解したり予測したりするだけでなく、自ら介入して意図に沿うように物事を形作る能力です。

この設計能力を発揮する思考法を、論理設計思考と呼ぶと良いのではないかと考えています。一般にデザイン思考という言葉もありますが、多義的であり、かつ視覚的なグラフィックデザインの話題との混同を避けるため、論理設計思考という呼び方をしたいと思います。

この記事では論理設計思考における論理設計の定義をし、個人や社会における論理設計の重要性や難しさを掘り下げていきます。これにより、現在の社会には社会的思考の欠如があり、それを克服するための探求の必要性が見えてきます。

■論理設計思考:科学、意志、工学

私は論理設計を、科学、意志、工学をベースに、これらを組み合わせる知的能力と定義したいと思います。

これらの関係を説明するために、自転車の操縦を例にします。

自転車は止まっている状態や速度が遅い間は不安定です。ペダルを漕いで速度が上がってくると、自転車は安定するようになります。

ただし、速度を上げ過ぎると、今度は地面の凹凸によって受ける影響が大きくなり、それによってバランスを崩しやすくなります。

また速度を上げ過ぎているとバランスを崩した時にリカバリをする前に転倒してしまう可能性もあります。その他にも、速度を上げ過ぎていれば障害物をよける事や複雑な道を進むことが難しくなりますし、もっと速度が上がれば部品が耐えられなくなって壊れてしまうでしょう。

以上の説明は、科学的な視点です。科学とは、事実を基にして客観的に物事を把握することです。

科学には、どうしたいのかとか、どうするべきかという主観性はありません。こうした主観的な判断は、意志の領域の問題です。

自転車で言えば、自転車でケガをしないように安全に運転するべき、あるいはリスクを取ってでも速度を上げるべきかは、状況に応じた主観的な判断をすることになります。

自転車に乗って達成すべきことが日常的な買い物であれば安全運転が重視されるでしょうし、自転車の競争に出ているなら安全を重視過ぎれば勝てません。

しかし、安全に対するリスクを冒してまで勝ちを狙うのか、勝ちを逃す可能性があっても安全を優先するのかは、本人の価値判断であり、主観的な意志の領域です。

また日常的な買い物であっても、安全を犠牲にしてでも速度を上げたいという欲求に対して、その欲求のままに危険な運転をするか、欲求を抑えて安全に運転するかも、本人の主観的な意志の領域です。

また、どこまでの事が可能であるとか、何をどうすれば良いといった、実現可能性や実現ガイドラインも、科学には含まれていません。こうした実現性に関する知恵は、工学の領域の問題です。

自転車の例で言えば、漕ぎ初めはバランスが悪いため、左右の重心の取り方に気を配りながらできるだけ早く速度を上げることで、バランスと加速を両立できるでしょう。速度が上がってくれば、左右の重心をあまり気にせずに、ペダルに最も力がかかるような姿勢を取る事で、安定を犠牲にせずにさらに加速することができるでしょう。

ただし、道路の凹凸や予期される障害物を考慮すると、対処できる速度には限界があるはずです。また、自転車の部品の耐久性を考慮すると、自転車が破損せずに走れる速度にも限界があります。

こうした、安全性をあるレベルに保ちながらどのくらいの速度が出せるかといった実現可能性や、自転車の耐久性を考慮するとどのくらいの速度に抑えた方が良いかという実現ガイドラインを考えるのが工学の分野の問題になります。

そして論理設計は、客観的な事実を把握する科学、達成したいことを主観的に判断する意志、実現可能性や実現ガイドラインの知見を集めた工学を組み合わせて、どうするかを決める作業です。

論理設計というと物の形状や材質を決めるモノづくりの言葉のように聞こえるかもしれません。制度設計や、コミュニティ設計という言葉もあるように、ルールやプロジェクトや人間関係に関わる物事にも、設計という知的作業は適用されます。

そして、自転車の例で言えば、自転車の走行速度をどうするか、どこで加速するかを考える事も、論理設計です。このためには、自転車の速度と安定性に関する科学的な知識、自転車に乗って何を達成したいかという意志的な判断、そして、安全と速度のトレードオフや運転ガイドラインについての工学的な知見を組み合わせて、自転車運転の論理設計を行う必要があります。

■論理設計思考の重要性

自転車の例で考えると、論理設計思考は特別な思考方法でもなければ、高度に専門的だったり高い知性が必要なものでもないという事が分かります。ただ単に、当たり前のことを思考しているに過ぎません。

このため、論理設計思考の重要性は、ここまでの説明では分かりにくいと思います。

しかしより複雑で大きな物事になると、当たり前の事に見える論理設計思考が、機能していないことが分かります。

例えば、夏休みの宿題について考えてみましょう。夏休みのような長期休暇では多くの宿題が出されます。毎日少しずつこなしていれば、焦ることなく宿題を完了させることができます。

しかし、前半で宿題を全く進めていなければ、後半は毎日多くの量をこなす必要があります。終盤まで宿題を進めていなければ、最終週に宿題をこなすために毎日ほとんどの時間を費やすことになるでしょう。ここまでが宿題に関する客観的な事実の整理です。いわば宿題の科学です。

そして、毎日多くの時間を宿題に費やしたくないという判断をする人もいれば、宿題をする日は宿題に集中し宿題をしない日も作りたいと判断する人もいるでしょう。また、多くの人は焦りながら宿題をこなすことが嫌だと思うでしょう。これが、宿題に対する個々人の意志的な判断です。

宿題の工学的な知見も様々なものがあります。例えば、誰かに分業をお願いできるかどうか、といった時短方法の実現可能性があります。また、高いクオリティを保って全ての宿題の完了させなければ先生に叱られるのか、ほどほどのクオリティで8割程度の完成でも先生に大目に見てもらえるか、なども知見としてはあります。

これらの科学的事実、主観的な判断、工学的な知見を組み合わせることで、夏休みの宿題をどのように進めるかを論理設計することができます。しかし、夏休みの宿題の論理設計は、自転車の運転の論理設計ほど当たり前に全員が実施してはいないでしょう。

生活習慣病についても同様です。几帳面な人は節度ある生活をして生活習慣病の予防に努めます。しかし、そうでない人は無秩序な生活を続けて、生活習慣病のリスクを高めてしまうでしょう。

それが自分が予め論理設計思考に基づいて自分の意志的な判断の結果だとすれば、それはそれで個人の意志として尊重されるべきですが、恐らく病気になってから多くの人は後悔します。これも、自転車の運転の例ほど、論理設計思考が当たり前で容易な物ではないことを示す例です。

■集団的な論理設計思考の困難性

論理設計思考が特に難しくなるのは、複数人の集団で実施する場合です。

多くの社会問題において、私たちは専門家の見解に頼りがちです。例えば地球環境問題、コロナウィルスの蔓延、人工知能技術の将来リスクなど、社会に対して大きなインパクトを与える問題があると、テレビやネットを通して、私たちは専門家の意見を把握しようと努めます。

しかし、ここで登場する専門家は、ほとんどの場合、科学者です。つまり、客観的な事実についての専門家です。

論理設計思考の観点からは、科学者だけでは明らかに不足しています。自転車の速度と安定性の関係についての知識だけでは、私たちは自転車の運転計画を立てることはできません。

それと同じように、私たちがこれらの社会問題に対して、どうしたいのか、あるいはどうするべきなのかといった判断に関しての価値観の整理や、どのくらいの人がどういった価値を優先したいと考えているのかを調査する専門家が必要なはずです。

さらに、その判断のためには、現実的に何が実現可能で、どこに限界があってどういったトレードオフがあり、どういったガイドラインに沿って実施するべきかといった工学的な知見も必要です。それが無ければ、100%の安全で、最高時速で自転車を漕ぎたいという実現性のない願望を多くの人が持っていることが分かったとしても、全く意味を成しませんし、論理設計もできません。

社会問題に対する論理設計思考を行うために大きく欠落している点は、この工学の視点と、それに基づく設計上意味のある意志決定の視点です。

このように整理すると、自転車の運転であればその重要性を理解できないほど当たり前に行えていると思えた論理設計思考は、社会問題に対しては上手く機能していないことに気がつきます。

■社会問題の専門家とは誰か

こうした問題に対して、専門家の意見があてにならないという事も言われています。それもそのはずです。私たちは社会問題を包括的に解決する論理設計思考を期待していますが、その専門家が科学者であると勘違いしているためです。科学者は専門分野の客観的な事実についての知識を持っているに過ぎません。

科学だけでなく、意志決定と工学の専門家の知識も集める必要があります。さらにはそれを組み合わせる設計能力を持った専門家もいなければ、論理設計思考は成立しません。この4つの専門家が力を合わせて初めて成立するにも関わらず、多くの人は科学者だけを専門家だと勘違いしており、科学者の意見を聞いていれば適切な問題解決につながると期待し、その期待が裏切られたと感じます。

この誤解を解くために、論理設計思考という一見当たり前に思えるフレームワークをしっかりと認識することが重要なのです。

■工学と設計の重要性の認識不足

私はシステムエンジニアですので、特にこの工学と論理設計の視点が社会問題に欠落していることを歯がゆく思っています。それは技術的な意味ではなく、問題の実現可能性やトレードオフを整理して、その範囲内で社会の多くの人が望んでいる要求を分析し、それを元に計画や制度を設計するという視点です。

意志決定や政策決定においても科学的手法であるか、エビデンスベースといった考え方が台頭してきています。しかし、必ずしもエビデンスが集められない未知の状況においては、工学的手法や設計ベースといった考え方もあり得るはずです。

しかし、コロナウィルスの蔓延という前例のない状況においても、エビデンスベースの政策決定が重要だと言っているテレビのコメンテータがおり、それに誰も反論していない様子を見て、私は驚きました。それほどまでに、科学しか私たちが頼れる知識は無いのだと誤解されており、工学や設計といった観点は認識されていないのです。

科学者は、前例やエビデンスが無ければ何も明確に言う事ができません。しかし、工学や設計は異なります。前例やエビデンスが無ければ、粗い想定モデルを立て、十分な安全度を含めて、小さな模型を作って試したり、参考になるサンプル情報を集め、限られた時間と人的リソースで最大限合理的な答えを出します。これは知識だけでなく経験や先見性、要求分析能力も求められます。

これは自転車の運転の例のように本来はシンプルで当たり前の知的作業です。これが集団において上手く機能していないのは、この当たり前の知的作業の重要性が、社会において見落とされているためです。

■社会的思考の死角

社会問題に対して論理設計思考が上手く機能していないことは、その証拠として、人工知能技術と自転車の例を比較するとわかりやすいでしょう。

人工知能技術がこのまま進化していったらどうなるのかという懸念は、様々な人から様々に挙がっています。そして人工知能の進歩を前提とした未来予測や技術的な対策や社会的な対策についてばかりが議論されています。そこには科学の視点しかありません。

そこには、そもそも私たちは安全と進歩のどちらを優先したいのか、そして安全と進歩のトレードオフはどうなっているのかという観点が、抜け落ちています。

自転車の例で考えれば、際限なく加速すればどんなに対策を講じても安全が脅かされることは明白ですし、安全を犠牲にしてまで加速したいという意見が大多数でないことは明白です。つまり、私たちは、制御可能な速度まで減速させる事を真っ先に考えるはずです。

しかし人工知能技術の話になると、このような当たり前の思考に基づいた意見が、不思議なことにあまり聞こえてきません。それどころか、自転車の運転の話に置き換えると信じられないような安全性を軽視した議論が、堂々となされていたりもします。

この理由として、自転車の運転よりも人工知能技術の開発の方が、影響やリスクが予測できないということが、思い浮かびます。しかし、影響やリスクが予測できないという状況は、どんな道をどれくらいの速度を出しているのかが体感できないように目隠しで自転車を運転しているようなものです。

そのように影響やリスクが分からないのであれば、安全にペダルを漕ぐこと自体が困難ですので、ブレーキを掛けて止まりたいと誰もが思うでしょう。

人工知能の技術開発では、どんな道をどれくらいの速度で走っているか分からない自転車に、子供たちを含めた全ての人を乗せてペダルを漕いでいるようなものです。安全になるように配慮しながらペダルを漕ぐべきだという声ばかりですが、どんな道をどれくらいの速度で走っているか分からないのに、多くの人たちは平然としているのです。

この状況が、社会的な論理設計思考の不在を証明しているでしょう。そして、人間や社会の重要かつ喫緊の問題に対して、私たちがこのような状況にあることの認識ができておらず、認識できたとしても理由を説明することが難しいのは、問題を理解するためのフレームワークがないためでしょう。つまり、社会的な思考の死角が存在しているのだと言わざるを得ません。

これは単に人工知能のような技術の問題ではありません。以前から環境問題には同様の構造があります。つまり本質的には、これは技術進歩に対するリスク管理の問題ではありません。私たちの社会には、私たちが日常的に行っている合理的な思考を実施する能力に欠けていることを示しています。

例えば、本当にこの社会が目隠しの自転車の上に乗っているという思考実験をしてみましょう。これは技術の進歩の話ではなく、自転車にブレーキを掛けるかペダルを漕ぐかの問題です。その時も、恐らく現在の社会構造では、ペダルを漕いでしまうのでしょう。それは、何故なのかという事を考える必要があるということです。

論理設計思考は特別な思考法ではなく、誰もが自転車の運転をする時には行っている、当たり前の思考です。当たり前の思考方法を、単に科学、意志、工学に分解して、論理設計思考という言葉で整理したに過ぎません。つまり誰もが当たり前にできる思考が、社会においては機能していないという重大な問題があり、にもかかわらずその問題への取り組みができていないという状況にあるのです。

■社会的思考の探求

このように考えると、社会的思考の観点から研究する必要がある新しい議論が2つあるように思えます。

第一に、社会的リスクに対する責任の欠如についてです。

人工知能の話に限らず、社会的リスクに対する責任が欠如しているということが見えてきます。社会的リスクについて、誰が真剣に、責任をもって考えるべきなのでしょうか。

もちろん、民主主義であれば最終的には社会の全員が責任者であり、その代表である議員の責任とも言えます。しかし、誰かが基本的な思考をして議論を整理したり方向性をまとめる必要があります。新しい問題や分野が未確定な問題については、責任の所在が現在の社会にはどこにもないのです。

第二に、責任の探求方法についてです。

もし急速な社会変化の要因が存在する場合、私たちはそれをどのように扱うべきか。それは急速であるため、伝統的な議論や意志決定では間に合わないケースが出てきます。科学的なエビデンスが十分に揃えられなかったり、民主的に熟議する時間が不足することもあり得るでしょう。

それを言い訳にして何も対策を取らなければ、それは責任を果たしたことになりません。こうした時間や知的リソースの制約の中、人間や社会に対して責任ある合理的な探求を行う際に依拠する考え方があるはずです。つまり、論理設計思考のように、考え方を考える事が必要になるはずです。

■さいごに

現代的な社会問題に対応していくためには、対象の問題の難しさやその理解や解決方法の探索とは別に、適切な社会的思考を可能にすることも重要です。

社会的思考が適切に発揮できなければ、難しい社会問題を理解したり解決策を探索する能力が不足する恐れがあります。また、仮に社会問題の解決策が見つかったとしても、社会的思考ができていなければ合意を取ってその解決策を押し進めることも困難です。

この記事では、論理設計思考という切り口から、個人や社会の思考について掘り下げました。そして、個人においても社会においても、論理設計思考を適切に発揮するためには、責任のあり方が重要である事が見えてきました。

個人においては責任はその個人の意識の問題となりますが、社会においては責任が複数の人に分散されてしまいます。この分散化された責任のあり方について考えていくことが、社会的思考を適正化し、現代的な社会問題への対応能力を上げていくことに繋がると考えられそうです。

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