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必要性の原理と「足るを知る」こと

多くの人が不幸になるような悲劇的な争いを世の中からなくすには、どうすれば良いかということを、おそらく、多くの人が改めて考えさせられていると思います。

一方で、そういう思いが頭に浮かんでも、一部の誰か悪いことをしている人がいて、その人たちに全ての責任があると考えていたり、あるいは平和な世界など実現できないと漠然と諦めてしまったりといった人も多いのではないかと思います。

この問題は非常に難しいテーマですが、何か一部の人が気持ちを入れ替えれば済む問題ではなく、また、多くの人がただ切望すれば良いという問題でもないのだろうと私は考えています。

より根本的に、多くの人が持つ性質や考え方、そうしたものを掘り下げる必要があるはずです。そして、非現実な理想像や高い道徳性を多くの人に持たせるようなアプローチでは達成は困難なままです。多くの標準的な善良さを持つ人たちが、十分に受け入れできるレベルの考え方を社会に持ち込むことで、争いの火種が少なくなったり、その勢いを抑えることができるようにしていくというアプローチが、より現実的だろうと考えています。

この記事では、自分に必要なものや度合いを理解して「足るを知る」という考えを多くの人が持てば、より平穏な社会に近づけるという考えを示していきます。

■平穏の阻害

ある指標が存在することを前提に考えてみます。この指標の高低について、以下の3つの信念が存在します。

1つ目は、この指標を他者よりも高い状態を保つことが絶対に必要であるという信念。2つ目は、この指標をどこまでも高くすることが絶対に必要であるという信念。3つ目は、この指標が最低限の基準を超えていることが絶対に必要であるという信念。

集団の中に同じ指標に対して1つ目の信念を持つ主体が複数存在している場合、争いの原因となります。自分の指標を高めるだけでなく、相手の指標を下げることも選択肢となるためです。

また、2つ目と3つ目の信念を持っており、かつ他者から収奪することで指標を増加させる可能性がある場合、争いの原因となります。

2つ目の信念の場合は、常に他者からの収奪が選択肢となるためです。

3つ目の信念の場合は、指標が基準を上回っている間は問題がありませんが、下回っている時には他者からの収奪が選択肢となります。

これらの状況は、究極的には平穏を阻害します。

■倫理的観点

争う事や平穏を阻害する事を、倫理的に悪徳であるとします。その場合、一般的には、相手に争いを仕掛けたり、相手の活動の妨害や勝手に所有権を侵害することが、悪徳であると考えられます。

こうした表面的な行為の善悪だけでなく、信念の善悪を議論することも可能です。

先ほどの1つ目の信念、つまり何らかの指標を他者より高める事を絶対に必要とするという信念は、悪徳な行為を絶対にしないという信念とセットでなければ、悪徳な行為を誘発する信念という見方ができます。従って、悪徳な行為は行わないという信念なしに、1つ目の信念を持つこと自体が、悪徳となります。

2つ目の信念、つまり何らかの指標を常に高くするという信念も、その指標が他者からの収奪で高めることができる場合、同様の条件で悪徳となります。

最低限の基準を上回ることを絶対に必要とする3つ目の信念については、基準に倫理的な正当性があれば、その信念を持つこと自体は倫理的には問題がありません。例えば生存のために必要な食料という基準であれば、倫理的に正当です。倫理的に正当である場合、どうしても他の手段でその基準を達成できない場合に、他者から収奪を行う行為も、緊急避難として倫理的に擁護されます。

このように、倫理的には1つ目と2つ目の信念は、適切な信念との組み合わせや指標の性質によっては悪徳になり得る信念です。このため、様々な指標について、他者との比較を絶対視したり、基準を設けずに延々と高めることを目指すことは、潜在的に悪徳になりやすいため慎重さが必要になります。

倫理的な観点からは、様々な指標について、倫理的な最低基準を設けて、その基準を越える事を目指す方が適切です。

■必要性の原理

このように、他者との比較や常に成長や進歩を目指すという考え方を潜在的な悪徳と捉え、倫理的に正当な最低基準を設けてそれを越えることを目指すという考え方を、必要性の原理と呼ぶことにします。

つまり、必要であることを目指す事は倫理的に正当であるが、必要性のないことや必要な基準を大きく越えること、あるいは必要性とは無関係に他者との比較に焦点を当てることは、倫理的に問題があるという考え方です。

最低基準は全員が一律で同じ基準であることが前提ではありません。各個人や各社会集団毎に基準を設けることは問題ありませんし、個別の状況や文化、好みや性格に応じて基準の柔軟性を保つことは重要です。その基準を満たす事が全体として困難である場合に、基準を一律下げる事や、同一基準を適用する事などを検討する必要が出てきます。全員が各自が決めた基準を満たせるのであれば、統一の基準は不要です。

このため、必要性の原理を達成するためには各個人や各社会集団が、「足るを知る」という事が必要になります。「足るを知る」とは、自分自身にとって、様々な指標毎にどこまでの基準が最低限必要であるかということを考えて自覚するということです。

■足るを知るということ

これは何かを我慢したり制限することを要請しているのではありません。必要であれば我慢せずに求めればよいのです。ここで道徳的に悪徳としているのは、必要性を無視して際限なく求めることや、他者と比較して基準を決めることです。

従って、足るを知るという事は、自分自身と真剣に向き合うことが必要になります。

多ければ多いほど良いという理由ではなく、本当に自分はどこまでが欲しいのか。そして、他人が持っているからという理由ではなく、本当に自分が欲しいのか。それを様々な物事に対して考えて基準に据えることが、足るを知るという作業です。

足るを知るという作業は、容易な作業ではありません。私たちはつい、できるだけ多くを求める方が安心できるという考えに甘えたり、他者と比較して自分の基準を決めるという手抜きをしたりしたくなります。こうした誘惑に流されることなく、自分の欲求の度合いを見極める力が必要です。

■個人の幸福の観点

必要性の原則は、社会道徳の観点からだけでなく、個人の幸福の観点からも重要です。何かをより多く求め続けても、手に入れた時には一時的には気持ちが満たされるかもしれませんが、すぐに冷めてしまいます。するとまた気持ちを満たすために、さらに多くを求めることになります。人よりも多くを求める場合も同じです。

ある指標が必要な基準を越えたら、その指標を高めることは止めて、別の不足している指標を高めていく方が良いはずです。そのようにして様々な指標を自分が決めた基準まで高めていくことで、個人の幸福度も向上すると考えられます。

■現在の社会の状況

必要性の原理のような倫理的な原則は、現在の社会ではあまり重視されていません。このため、資産、生活水準、成績、能力など、個人の能力や所有物を際限なく増やす努力をすることが、良いことだとされてきました。教育や自己啓発により、こうしたものを増やしたり高めたりするための学習や訓練がなされてきました。

これに対して「足るを知る」ということの重要性には焦点が当たっておらず、どのように考えればよいかという体系的な知識も、その実践的な訓練も教育や自己啓発においてあまり見られません。

倫理的な観点から、必要性の原理に基づいた社会的な価値観を変化させることと、この原理を実践することができるような教育のあり方を考えていくことが必要です。

■平和と争い

私たちは人類には永遠に平和が訪れないかもしれないという想いを抱くことがあります。複雑で多数の人間が絡み合うこの世界には、恒久的な平和の手段などないのかもしれません。

しかし、複雑なものが安定的な調和をしないのかと言えば、そんなことはありません。

生物の身体の仕組みはとても複雑ですが、それぞれの仕組みや組織が高い調和を保っています。人間の脳の仕組みや脳が扱っている知識や価値感の構造も複雑ですが、それらがぶつかりながらも、ある程度の一貫性を持って思考することができています。

では、人間同士が複雑に相互作用することに問題があるのでしょうか。

家族や友人関係や地域社会も、人間関係が複雑で、それぞれに異なる価値観や利害関係を持っていますが、大きな争いがなく調和している事例は多く見られます。それは必ずしも強力な行政や警察機構の取り締まりを前提としなくても達成されていることは少なくありません。

これらのことを総合すると、複雑で多数の価値観や利害関係がある場合でも、高い調和を保つことはできると考えられます。こうして考えると、人類の平和も、決して不可能ではないように思えます。

■足るを知る生物の身体

生物の身体は、生まれてから成長していきますが、ある時点で成長が止まります。それは摂取できる栄養に限界が来るためではなく、予めDNAに刻まれている遺伝情報の指示によるものでしょう。

自然淘汰の中で、環境に適応して生存や繁栄ができる形で生物は進化してきたはずですので、成長するメカニズムも、成長が止まるというメカニズムも、自然淘汰の結果として獲得したものです。つまり、その生物にとって、身体の成長がそのサイズで止まるということが、生存や繁栄の観点で重要だったという事です。生物種によって、成長が止まるサイズは異なりますが、成長が止まらない生物はいません。

また、生物の体の中の各組織も、基本的には、それぞれに十分なサイズになったところで成長が止まります。これにより、四肢や臓器などの組織や大きさや形状は、同じ種であれば概ね同じようなサイズや形になります。

この事は、一見当たり前でシンプルな事に思えるかもしれません。しかし、単純に栄養を摂取した分だけ成長していくメカニズムに比べて、ある時点までは成長してある時点で成長を止めるというメカニズムは、かなり複雑になります。

成長を止めるためには、まず成長を止めるポイントや基準を設定しておく必要があります。次に、現在の身体や組織の大きさを把握することも必要です。加えて、設定した基準と現在の大きさを比較することと、比較結果に基づいて成長させるか、成長させないかを判断して、成長の仕組みを制御する必要があります。

この成長を止めるメカニズムは、前述した「足るを知る」ために必要なことと同じような構図を持っていることが分かります。生物は進化の過程で、身体全体についても個々の組織についても、足るを知る作業を行い、それを遺伝子に残してきたと言うことができるでしょう。

■さいごに

争いが無い、あるいは、争いの機会や影響が少ないような社会という意味で平和ということを考えると、何らかの倫理的な基礎が必要になると考えています。この記事で提示した議論は、社会的な平等や公平性、個人的な自由の我慢や利他の精神のような倫理観とは別の観点から、平和へ近づくための倫理観を考えてみました。

これらの既存の倫理観は重要ですが、一方でハードルが高いことも事実です。生物の身体が調和を取るための仕組みと対比すると、平等、公正、我慢、利他のようなものではなく、別の観点があるのではないかと思わされます。この記事で挙げたように、成長を途中で止めるメカニズムは、生物の身体の調和にとって大きな意味を持っているように思えます。

生物の身体の調和も、将来の平和な社会も、必要性の原理に従う事が一つの道なのではないかと思います。もちろん、必要性の原理に従うことも、ハードルが高いことは事実です。必要性の原理の良いところは、個々人が自分にさえ焦点を当てればよいという点です。

社会の複雑な仕組みを理解したり、社会のために自分に必要なものまで我慢したりすることを求めません。ただ自分自身を見つめ続けて「足るを知る」という難しい作業を続ける必要があります。この難しさは知能の高さとして難しいというよりも、心の能力としての難しさにその本質があります。

そして、この「足るを知る」という難しい作業は、個人の人生を豊かにする可能性が高いという点にも利点があります。なぜなら、自分自身が何をどれだけ望んでいるのかを考え続けるという事は、自分の幸福について考える事に他ならないためです。

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