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「生命とは何か、という問い」について考える

私は個人研究として、生命の起源の探求を行っています。ただし、化学や生物学の観点からではなく、システム工学の観点から、生命が構築されるメカニズムやそこに現れる構造を分析するというアプローチを取っています。

この記事では、生命の起源の話を少し離れ、「生命とは何か、という問い」について考えてみます。生命とは何かという事に答えを出すことは難しいと考えていますので、一歩引いた視点で、その問い自体がどのような性質を持つのかを考えてみることが、この記事の趣旨です。

■生命の基本性質

生命の性質として、動的にエネルギーと物質を変化させる構造を持ち、ロバストな恒常性を持つ仕組み、という特性を挙げることができそうです。

例えば、振り子や渦は、この条件をそれなりに満たしています。

しかし、一般的には振り子や渦は、生命とはみなされません。

ここで、何をどこまで満たしたら生命で、どこまでが無生物であるか、という疑問が浮かびます。

しかし、そもそも生命と無生命に閾値のような境界があるという考え方ではなく、生命度のような度合いで測る考え方の方が適切かもしれません。

生命度として測るなら、ランダムに物理法則に従って動いている物よりも、振り子や渦の方が、生命度は高いと言えるでしょう。そして、細胞よりは、振り子や渦は生命度は低いとも言えます。

このように、恒常性を保つためのロバスト度合いの高さのように、段階を持った性質を基準を使って、生命度を評価することができるでしょう。もちろん、恒常性を保つためのロバスト度合いが生命の度合いを測る全てではないため、他の性質も組み合わせて考える必要があるでしょう。

■生命の付随的な性質

成長や進化、自己複製という性質が、生命の定義として挙げられている事があります。しかし、私はこれらの性質は、生命に必須の性質でなく、付随的な性質だと考えています。

例えば、仮に、成長も自己複製もせず、従って進化もしないような細胞を試験管の中で製造できたとします。成長や自己複製を行う事が無い、ということ以外は、通常の細胞と何ら変わりがありません。それは生命ではない、と言い切れるとは思えません。

この視点から、成長や進化や自己複製は付随的な性質であり、生命として必須の性質ではないと私は考えているのです。

■生命と生物種

進化や自己複製についてもう一つ視点を追加しておくと、これらは生物種について考える際には、必須の性質と言えます。逆に言えば、進化や自己複製を生命の必須要件だという意見は、生命と生物種を同一視していると言えるでしょう。

しかし、建設的な議論のためには、生物種と生命は分けて考える必要がありますし、少なくともどちらの議論をしているのか文脈を明確にする必要もあります。そうでなければ、先程挙げたような成長も進化もしない細胞を、生命と扱うかどうかで議論が噛み合わなくなってしまいます。

なお、生物種と生命を同一視するか、分離するかという観点は、生き物に対する倫理観や生存権など人権に対する議論にも結びついてしまう点に注意が必要です。私は、生物種と生命を同一視することには、慎重でなければならないと考えます。

これは、例えば会社と労働者を混同するようなものです。確かに、労働者は会社に貢献します。しかし、会社の存続のための条件を満たされければ労働者ではない、という議論はあまりに会社中心の視点であり、労働者から見た視点や配慮が欠けていると言わざるを得ません。

■中心と境界

生命のような多義的で複雑な対象を議論する時、その概念に関連する全ての性質を持っているものから、一部の性質だけを持っているものまで、多様なものを対象にして考える必要があります。

どちらを基準に議論することが正しいか、という話ではありません。それぞれの観点で議論することが望ましいでしょう。ただし、どちらの観点で議論しているのか、という文脈を意識することが重要になります。

道に例えると、その道の中心部分がどこを通っているかという話をしているのか、道と道でない部分の境界がどこにあるのかの話をしているのか、という違いです。

どちらも道の話をしており、似通っています。しかしどちらの文脈かを理解しなければ、詳細な部分では大きな食い違いが生まれる恐れがあります。

本質的に境界が曖昧な対象について考える時、境界の話だけでは議論は永久に決着しません。そういった対象は、中心部分について議論することも重要になります。中心が明確であれば、境界は定まらなくても、どちらがより中心に近いかという議論は可能になるためです。

■性質への要素還元が可能かどうか

例えば、性質A、B、C、D、Eが、生命の持つ性質だとします。この全てが揃っている生命もあれば、A、B、Cだけを持っている生命もあり、C、D、Eだけを持った生命もあります。すると一見Cがあるかどうかで生命かどうかが決まるように見えます。

しかしCだけでは生命と言えず、かつ、Cを含まずA、B、D、Eの性質を持つ生命も存在する、そういったものかもしれません。

この場合、生命と非生命を、特定の性質の有無で明確に切り分けることはできません。どの性質があれば生命で、どれが欠ければ生命でない、という事が一意に言えないという状況です。

つまり、性質を要素として、要素還元的な分類ができない可能性があるということです。要素還元的な分類というのは、ある物質的な構造や特定の性質を持っていれば生命で、持っていないものが非生命だ、という分類の仕方です。先ほどの例のように、全ての生命に共通している性質はないという状況にある場合、このような分類は困難です。

生命が、そのような対象だという可能性を念頭に置かなければ、生命と非生命の区別の迷路から抜け出すことができなくなる恐れがあります。

■環境との組み合わせ

特定の性質で生命を規定できないのであれば、どのように規定することが考え得るのかという疑問が出てきます。

ニヒリズムや諦観的な視点を持っていると、要素還元的に捉えることができないのであれば、私たちが理解するということの範疇の外にあるのかもしれない、という考え方に陥るかもしれません。つまり、本質的に理解できないものとして諦めるしかない、という立場です。

しかし、もう一つの見方が可能です。それは、生命体単体の持っている性質としては生命を特徴づける共通特性がないとしても、生命体と環境の相互作用には、生命を特徴づける共通特性があるかもしれない、という考え方です。

例えば、芸術を定義することは、その作品だけでは困難です。評論家、鑑賞者、製作者、芸術の歴史的な文脈、など、周辺環境があって初めて、その作品の芸術的位置づけや評価が定まります。

過去に芸術界になかった、斬新なアイデアや考え方が込められた作品にこそ、新しい芸術的な価値があるという考えが芸術界にあったからこそ、買ってきた既製品にサインをして美術館に展示したレディメイド作品や、コンサート会場でピアノから1つも音を出さない演奏会が、芸術史に刻まれたと考えられます。もし、そういった時代背景がなく、ずっと昔にレディメイド作品や無音の演奏会を芸術家が提示しても、それが芸術とみなされることは無かったでしょう。

同じように、生命も、生命体自体の性質だけでなく、生命体と環境との相互作用によって成立していることは間違いありません。生命体に着目すると、全ての生命に共通する性質が見いだせないのは、生命体によって、重要な性質を外部の環境の方に任せているからかもしれません。

そう考えると、生命の定義は、その生命体だけの範囲に絞った特性ではなく、その生命体が生きることができている環境の方にも視野を広げることで、より適切な議論ができるのではないかと考えられます。

■さいごに

この記事では、「生命とは何か、という問い」について考えてみました。

まず、生命と非生命に明確な境界線があるわけではなく、非生命と生命の間にある存在は生命度という指標で、生命に近いか非生命に近いかを評価できるのではないかという話をしました。

次に、生命と生物種を明確に分離し、どちらの文脈で話をしているのかを明確にすべきという考えを示しました。生物種について考えるなら自己複製や進化が中心的な概念になる一方、生物種ではなく生命について考える時は、自己複製や進化は付随的な性質になります。

さらに、生命の境界を探るアプローチも重要な研究ですが、境界がぼやけていることが生命の特性だとすると、境界ばかりを追っていても理解は深めにくいと思います。そのため、境界ではなく、真ん中の典型的な生命の事例を使って理解をする方が適していると思います。

また、性質を要素還元的に捉えても、上手く生命と非生命を切り分けられないかもしれない、という考え方にも触れました。この観点から、生命単体だけでなく環境との相互作用にも目を向けることも必要になると思います。

この記事は「生命とは何か、という問い」に対する考え方について、個人的に考えている視点をまとめたものになります。こうした考え方の枠組みをしっかり押さえておくことで、複雑で多義的な生命についての問いに対し、より建設的な議論を進めることができるでしょう。

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