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コピーライターになった理由。諦めた理由。そして金の鉛筆。

大掃除をしていたら、金の鉛筆が出てきた。……そういえば、この書き出しのネタを昔書いたぞ、と過去の記事を漁っていたらnoteに移る前のmediumだった。今読んでも同じような気持ちだし、同じようなシチュエーションなのでここに転載しておこう。僕みたいな人に届くといい。

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大掃除をしていたら、金の鉛筆が出てきた。
これを見て、すぐにピン! ときた人とは、きっと居酒屋で2,3時間は平気で話ができると思う。
これは宣伝会議が主催する「コピーライター養成講座」の課題優秀者トップ10に贈られる「金の鉛筆」と呼ばれるものだ。右の数字は、そのときの順位。「1」と書いてあるのは、そのとき最優秀賞だったという証だ。

僕が制作会社に転職して2年目だったから、たぶん24か25。その頃から基礎コースと上級コースを受けたけれど、1がついた金の鉛筆をもらったのは、上級の最後の課題、一度きりだった。

これがほしくてほしくて毎週末頭を悩ませていたのに、もらったときに、僕はコピーライターを諦めた。諦めるしかない、と思った。

僕がコピーライターという仕事を知り、意識したのは大学生の頃だった。図書館で見つけた「仲畑広告大仕事」が最初だ。真っ赤な表紙の大判で、えらく大げさなつくりだけど、ページをめくるたびにため息をついた。シビレた。カッコよかった。大人になると消えると思っていた、青臭い熱がひどく洗練されてそこにあった。僕は興奮した。言葉で人を動かすという仕事がこの世にある。しかも、どうやら僕にもできそうだぞ。

引用元はamazon。でっかくて重かった。

超一流のプレイヤーは、難関なことをいかにも簡単にやってのけるけれども、その頃の僕に仲畑貴志の技のスゴさが分かるわけもなく。大学の課外活動に来ていたコピーライターに押しかけ、半ば雑用のアルバイトをはじめたのはそれから半年後のことだった。

大学を卒業した後、コピー機を売るという遠回りもしたけれど、無事にコピーを書く仕事についた。会社では誰もコピーライターなんて名乗っていなかったけれど、僕は、自分がコピーライターだと疑っていなかった。

いいコピーを書いて、賞を獲って、のし上がる。それが僕の進む道だ。その一環として、有名コピーライターが講師として教えてくれる宣伝会議の養成講座に通う。それはごく自然なことだった。

でも、講座が始まってすぐ、気づいてしまった。僕に才能がないことに。しかも、コピーライターの華である、キャッチフレーズのセンスがないことに。

課題は毎週出された。

「カルピスが飲みたくなるコピー」
「サッカー観戦がしたくなるコピー」
「本屋にいきたくなるコピー」

頭を悩ませ、コピー年鑑を飽きるほど開き、ときに100本ノックもやった。でも、優秀者発表で僕の名前があがることはほとんど無かった。

コピーライターでもなんでもない人が、目の覚める鮮やかなコピーを書いてくる。僕はそれを見ながらどんどん自信をなくしていった。

当時の仕事は求人広告。現場の生々しさを、いかに求職者に正しく、かつ魅力的に伝えるか。そこに虚飾の入り込む余地はない。僕はこの仕事が好きだった。でも、テレビCMや駅貼り広告といった、いわゆる華やかなマス広告にも未練があった。いやタラタラだった。

あるとき、講師で来ていた著名なコピーライターに聞いたことがある。「僕は求人広告の仕事をしているんですが、マス広告との違いに悩んでいて……」なんてことを聞いたと思う。そのとき彼はこう言った。

「求人広告は特殊だからね。ちょっとわかんないや」

憧れの仕事をしている憧れの人から、世界が違うと拒絶されたような気がした。

養成講座の基礎コースでは打ちのめされ、それでもと奮起して上級コースを受けた。講座費用は会社に頼みこんで、給料からは毎月天引きしてもらっていた。まだ諦めるわけにはいかなかった。

しかし、上級コースでも僕のキャッチフレーズのセンスのなさには成長がなかった。僕の書くコピーはいかにも平凡で、華がない。誰の目にもそうだったと思うし、今の僕が見てもそうだ。丸めて捨てたくなる。

辛いなぁと思いながら通い続けて、最後の課題発表の日になった。最後の課題は、

東京から、京都ではなく、名古屋に寄ってもらうための鉄道会社のコピー。ただし、企画意図を書くこと。

だった。

そのとき僕がしたことは、キャッチフレーズを書かない、ということだった。企画にすべての時間を費やした。東京から京都と名古屋の交通費を比較し、両方の街の想定される魅力を列挙し、当時の流行から想定ターゲットを見つけ、名古屋に到着してからのツアープランまで考えた。たしか、歴女をターゲットにした名古屋戦国プランだったと思う。

発表のとき、僕以外の全員がキャッチフレーズを提案した。どれも華やかでカッコイイものだった。僕一人が、名古屋の抱える課題と解決策を提示した。結果は、1のついた金の鉛筆だった。

「このままクライアントに提案できる」と当時の電通のクリエイティブディレクターに講評されたとき、僕はコピーライターとして華やかな側面に憧れるのをやめた。言葉を自在に遊ばせるセンスは、残念ながら僕にはない。仲畑貴志や糸井重里、秋山晶のようなキラ星のようなコピーは僕には書けない。でも、課題なら解決できる。誰かの悩みと向き合おう。

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あのときの原体験が、今の自分のスタイルの根っこになっている。そう感じます。

さて、今年もまもなく終わり。去年にも増して、今年もずいぶんたくさんのコピーを書いてきたけれど、そこにはキャッチフレーズを書くだけ、という仕事は一本もありませんでした。

成果物として、わずか20文字のタグラインになった場合も、すべて課題整理と企業分析を含んだ企画の結果です。まだまだ若輩の僕の知恵を頼ってくれた皆様、本当にありがとうございました。来年は輪をかけて頑張ります。それでは、良いお年を。

追伸
妻にその話をしたら、私もそういえば持ってるわ、と引き出しからどさっと出された。……つくづく方向転換して良かったわ。

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