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「これは君が主人公になれるゲームなんだぜ!」 - リアル脱出ゲームに至る道

1974年9月14 日。
リアル脱出ゲームが生まれる33年前に僕は生まれた。

生まれは岐阜市。小学5年生まで岐阜に住んでいた。
覚えている一番最初の記憶は保育園の入園式。
飛行機のマークの靴箱に靴を入れているところ。
自分のマークが飛行機だったのでうれしかった。
目立ちたがり屋で、周りの空気を読めなくて、やたら大きな声でしゃべってた。
それが保育園時代の僕だった。
今もそんなに変わってないかもしれないけれど。

騒ぎすぎてピアノ教室を退学になったりした。
よく母に「あんたは退学歴一回あるからな」とからかわれた。
手がかかる子供だったんだろうな。

保育園のこともあんまり好きじゃなかった。
縄跳びを結べなくてすごく叱られて行きたくなくなった。
あとあわてんぼうのサンタクロースの歌詞が覚えられなかったときも行きたくなくなったな。

そういえば年少のクラスの時に年中になるのが不安で夜に泣いたことがある。
父がやってきて「大人になるのは楽しいぞ。酒も飲めるしタバコも吸える」といった。
その夜はそれで安心して眠った。
大人になってみてわかる。
たしかに大人のほうがうんと楽しい。

『おしいれのぼうけん』という絵本がすごく好きだった。
あとは水木しげるの妖怪図鑑。
ドラえもん図鑑もよく見てたな。
京都に住んでいたおじいちゃんとおばあちゃんが好きだった。
京都に行くことになるととてもワクワクしていた。
そんな保育園児だった。

3年ほど保育園に通い、小学生になる。
どんな小学生だったかというとまあ相変わらずよくしゃべる子供だった。
近所の友人たちからは「ペラ」というあだ名で呼ばれてた。
いつまでもペラペラとしゃべっていたから。

4年生くらいのとき、毎晩なぜか夜中に目が覚めた。
隣の部屋の両親の声が聞こえてくる。
布団にもぐって耳をふさいでも聞こえてくるから、いつも寝不足だった。
体調が悪くて保健室に行くけれど理由を聞かれても困るので「お母さんがご飯を食べさせてくれない」と嘘をついたら、家に連絡が行き死ぬほど怒られた。
よくわからないけれど教科書を破って食べるという癖があった。
鉛筆もかじりすぎておしりがギザギザになっていた。
教科書もノートもすべての四つ角がかじられていた。
「なぜこんなことをするの?」と問い詰められて「お母さんがご飯を食べさせてくれない」と嘘をついた。
もう信じてもらえなかった。
ちなみに母はものすごく料理がうまい。
今でもうまい。

小学2年生の時に体調を崩して2週間くらい学校を休んだ。
それで九九を覚えられなくて算数の授業についていけなくなった。
小学校4年生くらいまで算数がまるでだめだった。
それで母親に連れられて公文に行くことになった。
それがなぜか僕にはうまくはまったらしく、一年くらいたったころにはクラスで一番か二番に計算の速い児童になっていた。
公文にはとても感謝している。

小学校3年生で野球を始めた。
プロ野球選手になりたかった。でもちっともうまくなかった。
野球は中学3年生まで続けるが、うまかったことは一度もない。
監督やコーチが怖かった。
でも中日ドラゴンズが好きで、野球は今でもすごく好きだ。

地元の公立小学校だったけれどものすごく宿題の多い学校だった。
毎日3時間は宿題しなくちゃいけなかった。
ほぼ毎日なんらかの宿題を忘れた。わざと忘れたんだと思う。
その件ではよく叱られた。
たしか4年生の時は公文、スイミング、習字、ピアノを習っていた気がする。
字は今でも下手でピアノはちっとも弾けないけれど、泳ぎは割と得意だし、計算は早いほうだ。今でもザクっと数字を把握するのが得意なので、会社の貸借対照表のおかしなところにすぐに気づく。
ちなみに習字は隣に座ってた子の顔に墨で落書きして人生二回目の退学になった。

父がこの時代の人にしては珍しくマンガが好きで、しかも子供にマンガを積極的に与える人だった。
まだ連載がはじまったばかりの『タッチ』の1巻を買ってきて「これはおもしろいぞ!」とか言ってた。父がおもしろいと言ったマンガはその後大体ヒットした気がする。
その他のマンガはドクタースランプあられちゃん、ハイスクール奇面組、タッチ、キャプテン、ドラえもん、キン肉マンとかが好きだった。
キン肉マンは確か金曜日の17時とかにアニメが放送されていたのだけど、その時間になると外に出ている子供は一人もいなくなった。みんな家に帰ってテレビを見ていた。それくらい人気だった。
藤子不二雄の漫画は全部好きで、大体読んでた。

図書館でエラリークイーンや、江戸川乱歩、アルセーヌルパン、シャーロックホームズなどを借りまくって読んでいた。このころからミステリーは好きだった。
ミステリー読んでると怖くなって必ず最後まで読まないと眠れなかった。

江戸川乱歩の小説に出て来る少年探偵団にあこがれてた。
4人くらいの友人で少年探偵団を作ってみた。
かなり勇気を振り絞って友人を誘ってみたら「いいよー」って軽く了承されてすごくうれしかった。
でも、その後その少年探偵団が活躍する事件がまったく起こらなくて絶望した。
物語の中ではすぐに事件が起こるのに。
仕方がないから身内だけで成り立つ暗号とか、そういうのだけ作って素早く書けるようになるために練習したりしてたけど、さすがにばかばかしくなってやめた。
物語と現実の違いを思い知らされた出来事だった。

このころからどうやったら物語みたいなことが現実で起こるのかを考え始めていた。
ドラえもんはのび太君が3年生の時に来たけれど、僕のところには来なかった。
ドラえもんが来なかった件はけっこう今でも納得いってない。
来る前提で人生計画を立てていたから、人生の予定がすごく狂った。

家庭はなんとなく不和で、どうもギスギスしてた。
子供たちの前ではそれなりにうまくいっていたけれど、そこかしこにほころびがあった。
ラジオで演歌が流れて、それが別れの曲とかだと心がどんよりと落ち込んだ。
友達はそれなりに多くて、放課後もいろんなやつと遊んでいたが、ずっとこっそり哀しかった。

岐阜の小学5年の時の担任の先生がとにかく俺のことを嫌いで、折り合いが悪かった。
「あんたは出来が悪い」みたいなことを面と向かって言う先生だった。
無実の罪を被せられて悪者に仕立てられたりした。
そして強引に謝罪させられた。
あの時の記憶のせいで今も岐阜の小学校が嫌いだ。
NHKで「ようこそ先輩」という番組から出演依頼が僕にあって、それは卒業生が母校の小学校に何かを教えに行くというものだったのだけど「加藤さんは京都の小学校と岐阜の小学校の両方に通っておられますが岐阜のほうが長いので岐阜にしますか?」と聞かれて、絶対に京都にしてくださいと伝えた。
岐阜の小学校五年生の時の担任の先生のことは今も全然許してない。

5年生の秋くらいに両親が別居することになる。
父親は岐阜に残り、母と僕と妹は母の実家があった京都で暮らすことになる。
ああ、とうとう恐れていたことが起こってしまったと思った。
旅先でそれを告げられた時に泣いた。
しばらく哀しかったけれど、よくよく考えたら大好きな親戚がいる京都で暮らすってのもそれなりに楽しみになってきた。
二週間くらい経つと気持ちは京都に向かっていた。

引っ越しの前日に小学校のクラスでお別れ会が開かれて、何人かが泣いてた。
なんで泣くんだろうと思った。
僕のほうがうんと哀しいのに。
誰かのために泣けるなんてすごいなと思った。

女の子3人くらいが家までカールを持ってきてくれた。
なぜか封を切って紙皿に乗せて。
ありがとうっていって受け取った。
食べたらおいしかった。
でもなんで封を切って持ってきたんだろ?女の子たちはすぐ帰った。

京都に引っ越してきた。
京都の小学校は岐阜と比べてものすごく自由で活気があった。
先生も自由にさせてくれた。
なんかすごく空気がはまった。
断然京都のほうが好きだった。
公平で自由で岐阜に比べて理不尽さを感じなかった。
あと岐阜の時にめちゃくちゃ宿題やらされてたおかげで、京都に来たら優等生になっていた。
岐阜の時は算数だけはちょっと得意なそこそこのやつだったけど、京都だとクラスで3番目に賢いくらいになっていたのでなんかそれは「俺だけ異世界でランクアップ」みたいでうれしかった。

京都。楽しかったな。
本当に肌に合うって感じだった。
やっと自由に言いたいことが言えるような気分だった。
でもなぜか、このころから不眠症になって毎晩寝られなくて周りを心配させた。
医者に行って睡眠薬をもらったりしたけど、それを飲むと翌日一日中眠くってダメだった。
自家中毒というなんかめちゃしんどい病気とかにもなった。
大きな病院に連れていかれてお医者さんに診てもらった後「じゃあ先生はお母さんと話があるから君は隣の部屋で待ってて」と言われた。
僕はてっきり「あの子の命はあと二か月です」とか母が医者に言われてるんだと思って隣の部屋でこっそり泣いてた。
自分が死ぬと気づいてることを母に気づかれたら申し訳ないと思ってしばらく黙っていたが、ある夜に我慢できなくて泣きながら「僕死ぬの?」と聞いたら笑われた。
なんかすごくほっとした。
普段は絶対に食べさせてくれないアイスクリームを夜なのに食べさせてくれた。
あれはうまかった。

高学年になってもあいかわらず本をずっと読んでいた。
「冒険者たち」という本がものすごく好きで何度も読み返した。
シジンというネズミが詩の力で強大な敵に立ち向かうシーンがある。言葉には力があるのだと学んだ。
「はてしない物語」という本に異常なほど共感して心が震え続けた。
一週間くらい感動していた。
大の本好きが本の中に入ってしまう話だった。
物語の中に入りたいとずっと思っていたから、願望が物語の形になって突然現れたような気持ちになった。
町を歩くちょっと変わった人を見たら、なにか犯罪が起ころうとしてるんじゃないかと疑ったり、奇妙な落書きがあったらなにか意味があるんじゃないかと思ったり、雲の形からもメッセージを受け取ろうとしてた。
まあなんかやばい小学生だった。

物語が終わってしまうとかなしくなるので、なるべく長い本が好きだった。
いつも図書館でなるべく分厚い本を探していた。

世の中はファミコンの一大ブームという超巨大な嵐が発生していた。
このころ発売されたスーパーマリオブラザーズは世界中でヒットしていて、マリオを操作したことない男子なんてクラスに一人もいなかった。
もうみんながみんな夢中でマリオを操作していた。
御多分に漏れず僕も熱中した。あんな面白いものはなかった。

そんな中すごいゲームが発売された。
「ポートピア連続殺人事件」だ。
なんと自分が警察になって連続殺人事件の犯人を捜すらしい。
とうとう夢に見たようなことが現実になろうとしていた。
ポートピアの広告を見た時からもういてもたってもいられなかった。
誕生日に買ってもらって夢中で捜査した。
ポートピアは当時のゲームによくあった「とてつもなく難しいゲーム」で、普通にプレイしても解けやしない。ほとんどの小学生がクリアすることができなかった。
僕も全然クリアできなかったけれど毎日コツコツプレイしていた。
地下迷宮は目をつぶっても借用書(という証拠品)を手に入れることができた。
半年くらいかけて、攻略本などを見ながら迎えたエンディングはじわじわと胸にくる感動的なものだった。
簡素で短いエンディングだったけれど、あの最後のシーンは今でもよく思い出す。

6年生になって人生を変える出会いがあった。
ドラゴンクエスト!
何と言ってもまず少年ジャンプに載った広告がドンピシャだった。

そこにはこんなキャッチコピーが書いてあった
「これは君が主人公になれるゲームなんだぜ!」
そう。まさにそれだった。まさにそれが求めているものだった。
この言葉を見て初めて自分の欲望が何だったのか、これまで満たされなかった理由が何だったのかを理解した。
僕は「物語の主人公になりたかった」のだ。

1986年5月27日。ドラゴンクエストが発売された。
震える手で箱を開けた。ファミコンに差した。
あの日の興奮が今も続いてるような気すらする。
自分の操作するキャラクターが人と話をして、敵と戦い、冒険して、お金を稼ぎ、物語を進めていく。物語の中に入っていると思った。
これはまさに自分が主人公になれるゲームだった!
橋を越えるたびに強くなる敵。街の人から聞く謎めいた情報。初めてラダトームのバリアを越えて戦士と話した時、その内容に衝撃を受けた。そしてそこから紐解かれる謎!
ゲームは一時間だけと決められていたのでふっかつのじゅもんをメモして終えた。でも終えるときにまだ手が震えていて晩御飯を食べてる時もまだ手が震えてた。
その日の夜も興奮して眠れなかった。
一か月くらいかけて竜王を倒したとき、世界を救ったのだという充実感と、もう冒険が終わったのだというさみしさがやってきた。はやく次の冒険に出たくてゲーム雑誌を買って隅から隅まで読んで次の夢中になれるゲームを探した。
ドラゴンクエストは大ヒットしたからドラゴンクエストみたいなゲームはたくさん出てきた。
でもそれはドラゴンクエストじゃなかった。
僕にとってはドラゴンクエストだけが物語の中に入ることができるゲームだった。

あとこのころ初恋がやって来た。
Hさんというとてもかしこい女の子だった。
この子に気に入られたくてさらに勉強した気がする。
Hさんのことはこの後高校卒業くらいまで好きだった。
最後まで片想いだった。

そんな風にして僕は小学校生活を終えた。
中学受験なんて考えもせず地元の公立中学校に進んだ。
中学生になったらなにかもっとおもしろいことがあるんだろうか、と考えていた。
もちろん、そんなことは別になかったのだけど。

続く。


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