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音楽で生きていくためのバンドをつくろう - リアル脱出ゲームに至る道

迫りくる無職の30代からの脱出のために僕は編集プロダクションに勤めることを決意し、ほぼ毎日京都を紹介する文章を書き、フリーペーパーを二つ編集し、奇妙な社長との日々を送っていたのだけど、もう一つやったことは、これまで学生時代の延長線でやってきたバンドを解散させることだった。
そのバンドはハラッパ=カラッパという名前で、主に京都で活動していた。
大学の軽音サークルの友人たちと結成したバンドで、ほぼすべての曲を僕が作詞作曲していた。
結成当時僕は21歳で、いけすかないすかし野郎だったのだけど、曲を作るってことを知ってそのことに毎日興奮していた。
これまでため込んできた暗いうっぷんを音楽という形で吐き出すのはとてつもない快楽だった。言葉もメロディーも止まらなかった。ギターは覚えたばかりのコードを適当にかき鳴らして、それに適当にメロディーを乗せただけでなんか名曲な感じがした。世の中からどう思われるかなんてなにも関係なかったし、売れたいなんて思っていなかったけれど、とにかくただただ曲を作っていた。週に1曲は新曲を書いていたと思う。

大学卒業を機に一度は活動を止めてしまったハラッパ=カラッパだったけれど、しばらくするとまた活動をはじめた。
前述の僕の暗黒のニート時代はほぼこのバンドだけをやっている毎日だった。毎晩ギターを弾いて曲を作って、週に一度バンドでリハーサルをして、月に一度ライブをする。それだけしかしていなかった。24歳から28歳までの四年間をそんな風に過ごした。

さてそろそろ人生についてきちんと考えなくてはならない年齢になっても、このタイミングで音楽を諦めるという選択肢は僕にはなかった。ちっともなかった。なぜだかなかった。
この時の僕は、自分の作る音楽は(少なくとも自分というリスナーにとっては)絶対的にすばらしく、後はきっかけさえあれば世界的なミュージシャンになれる、ということになんの疑問も持っていなかった。
ライブハウスに来てくれるお客さんの数が爆発的に増えていくわけでもなく、ライブの録音をレコード会社に送ってもリアクションがあるわけでもなかったにも関わらず、なぜ自分があの時あんなに自分の音楽を信じていたのかはわからない。
ただ言えることは本当に間違いなく僕にとってはナンバーワンの音楽だったし、あの頃僕が作った曲たちは、今でも僕の心の深い部分を確実に揺らしている。

しかし、迫りくる30歳を前にして、これはいよいよ今のままではダメだぞ、と思い始めた。
そもそも僕以外のハラッパ=カラッパのメンバーは就職していて、特に生活の不安はなさそうだったし、会社を辞めてミュージシャンになるメリットも特になさそうだった。
本当はもっとたくさんリハーサルをしたかったけれど週に一度しかできなかったし、ライブも月に一度しかできなかった。でも、ここまで積み上げてきた6年くらいの歴史もあり、毎回ライブをすればそれなりにお客さんも来てくれた。
メンバーのことも大好きだったのでなかなかバンドを解散させるという気持ちにはならなかった。
しかし、無職30代から脱出するためには音楽を趣味でのんべんだらりとやっているわけにはいかなかった。
このままでは、なにも持たないまま30歳になってしまう!

ある日僕はついに勇気を出して切り出すことにした。
ただこの時の僕は「もう解散しよう!」というつもりではなかった。
「みんな!今の仕事を辞めて一緒にちゃんとバンドをやろう!きっとうまくいくさ!それが無理なら残念だけどもう解散しよう」という気持ちで話した。
どちらかというと「さあ!会社を辞めなよ!本気で音楽をやろう!」っていうつもりで話したのだけど、すぐさま「まあだったら解散かなあ」みたいな流れになったので少しだけショックだった。まあとても大きな会社に勤めてたメンバーだったから当たり前といえば当たり前なんだけど。

さて。
学生時代からぐずぐずと続けていたバンドがなくなってしまった。
新しいバンドをつくらなくてはならない!
いよいよ音楽で生きていくためのバンドを作らなくてはならない!

しかし、実は解散してから「さあ大変だ!新しいバンドを作らなくては!」となったわけでもない。
ハラッパ=カラッパが解散するちょっと前から僕の周りにはいくつかの奇妙な流れがあった。
ハラッパ=カラッパのライブによく来てくれるお客さんの中に一人あからさまにただならぬオーラを放っている長身で肩幅の広い男性がいた。
ライブ後の打ち上げで話してみると職業はミュージシャンだという。
そしてとにかくオーラがすごかった。
ライブが終わってステージから降りた直後の僕よりも、客席に居ながらにして不可解なオーラを放っていた。
その男の名前は伊藤忠之といった。
僕はなぜか彼と親しくなり一度彼の家に遊びに行った。
彼の部屋には所狭しと音楽の機材が並べられていて、まさに足の踏み場もなかった。
彼は自分の過去に作った曲などをいくつか聴かせてくれた。
それはたしかにすばらしかったような気がするのだけど実はあんまり記憶に残っていない。
なぜならばその後に彼は「加藤君はゲーム好き?」と言い始めて、おもむろにゲームをはじめたからだ。しかも一人で。延々と。たしか僕の記憶がたしかならばそれはPCエンジンで発売された「カトちゃんケンちゃん」というゲームだった。
彼はひたすら黙ってそれをプレイし続けていた。
時間軸を明確にしておくと、僕が伊藤君の家に遊びに行ったのは大体2001年くらいだ。
「カトちゃんケンちゃん」がPCエンジンのゲームとして発売されたのは1987年。
もう発売されて14年経ったゲームだった。
そのゲームを僕の前でひたすらやっていた。
たしか、お昼過ぎに彼の家に行ったような気がするのだけど、帰るときにはとっぷり日が暮れていた。
あれは幻だったのかもしれない。
しかしなぜかわからないのだけど、彼の家を出るときには僕は彼と音楽ユニットを結成することになっていて、しかもそのユニット名が「september9」になることも決まっていた。
僕が曲を書き、彼がアレンジすることになっていた。
あのキツネにだまされたような幽玄なる日に、僕の音楽人生は決定的に伊藤忠之の影響のもと進むことになった。
そして、補足すると、彼は「カトちゃんケンちゃん」がものすごくうまかった。

ところでで僕は学生時代の軽音サークルではハラッパ=カラッパ以外のバンドもやっていた。
僕が最初に組んだバンドはファンクのコピーバンドで、そのバンドのベースはありちゃんという、とんでもなくベースがうまい可憐な女子だった。
そして学生時代のある時期、僕は彼女とほぼ毎日飲んでいた。ただただ飲んでいた。
学生時代はバンドをつくって、リハをして、ライブをして、あとはありちゃんと飲んでいた。
そんなわけでありちゃんとの関係は大学を卒業してからも続いてはいたのだけど、それぞれ卒業後は別々のバンドに力を入れていたこともあり、少しずつ疎遠になっていた。
しかし、ちょうどこのころありちゃんがやっていたバンドも解散して、僕も新たなバンドを作ろうと模索し始めていたので、一度久々にスタジオに入ってみよっかーなんて話になった。
音を出してみたら、ありちゃんのベースはどっしりと重く落ち着いていて、それでいて僕のボーカルを鼓舞するような静かな迫力をはらんでいた。
「これはいいね!」と思った僕らは、その勢いでドラマーを探し始めた!

ドラムの候補は何人かいたのだけど、僕らは僕らが知る一番すごい人から声をかけていこうってことになった。
最初に僕とありちゃんの頭に浮かんだのは森崇さん。
僕らより何歳か年上のドラマーで、何度かライブを見たことがあったのだけど、スマートでかっこよくて、しっかりとしたドラムを叩く人だった。
そしてレコーディングスタジオを経営していて、何というか叩くドラムもそうだけど、音楽的にも「わかってる」感じがした。
僕が感じていたのは「僕がわかるはずのないことをわかってる人」ということで、まさに今からちゃんと音楽で生計を立てていくぞ!って時にはこういう方が必要なんじゃないかと思った。
電話をしてみると「一度話してみましょう!」ってことになり、ありちゃんの家で三人でミーティングした。
僕はその夜のことをあんまり覚えていないのだけど、どうやら僕は森さんに「僕は森さんにドラムとして入ってほしいというよりも、スタジオとかもやっててすごいなあってところがいいから誘ってるんですよねー」みたいなことを言って、ちょっと気を悪くされたらしい。
僕としては、ドラムもさることながら、僕の知らない音楽的な部分(レコーディングとか)を支えてほしい、みたいな気持ちで言ったんだと思うけれど、その場にいたありちゃんも「あれはさすがにちょっと失礼だと思った」と後に証言しているので、僕の言い方がかなりまずかったんだろう。ごめんなさい。

まあしかし、なぜか森さんはその場で怒りだしたりせずに「まあ一度スタジオに入ってみようか」と言ってくれて、三人でスタジオに入ることになった。
僕はその日のために新曲を作ったのだけど、その三人でのスタジオがすこぶるよかった。なにがよかったって、特にありちゃんのベースと森さんのドラムの相性がとんでもなく良いことがわかった。
森さんは「ありちゃんがいい」といっていて、ありちゃんは「森さんがいい」といっていて、もはや俺はいなくても成り立ちそうな勢いだった。

じゃあこの三人でバンドをやっていこう!
みたいな空気に一瞬なったものの、いや、待て待て!
このバンドにはドラムとベースとリズムギターしかいないぞと、メロディを鳴らせる楽器がないぞということに気づいた。
その時僕の頭に浮かんだのが「カトちゃんケンちゃん」が得意なことでおなじみの伊藤忠之だった。
さっそく伊藤君に声をかけて四人でスタジオに入ったのだけど、伊藤君はそもそもドラマーで、打ち込み音楽は得意だけど、スタジオですぐにドラム以外の楽器が演奏できるわけじゃない。
なのではじめて四人で入ったスタジオでは伊藤君は卵の形のシェイカーをずっと振っていた。爆音で森さんのドラムが鳴っている中、さざ波のようなシェイカーの音が微かに聴こえたのを覚えている。
四人で二回目にスタジオに入ったときに伊藤君はさまざまな打ち込みの音を持ってきてくれて、しかもそれが曲にカチっとハマり、やっとみんながほっとして正式にこの4人でバンドをやることになった。
それがハラッパ=カラッパの解散一か月前くらいの出来事。

そんな風にしてロボピッチャーは誕生した。

ちなみにちょっと話が前後しちゃっててややこしいのだけど年代順にまとめておくとこんな感じ

2001年10月 ハラッパ=カラッパに解散の話をする
2001年12月 ロボピッチャーの4人でスタジオに入る
2002年2月 ハラッパ=カラッパ解散
2002年3月 編プロに就職する
2002年4月 ロボピッチャー初ライブ

僕は28歳でした。

ハラッパ=カラッパの解散とほぼ時を同じくしてロボピッチャーはレコーディングをはじめる。やはりメンバーの中にスタジオを持っている人がいると話が早い。やはり俺の考えは正しかった。森さんのドラムがすばらしかったから誘ったのであって、スタジオを持っていたのはたまたまだったんだけどね!
その「ちょっと試しに録ってみた曲」がとても良かったので、これはちょっとさすがにがんばってやっていかないといけないな!みたいな空気が流れた。

僕は28歳までのささやかなインディーズ音楽人生の中で、たくさんのめちゃくちゃかっこいい音楽が誰にも聴かれずに消えていったのを見てきたので、ロボピッチャーは絶対にそうならないようにしなくてはならないと強く心に誓った。
僕は無職でニートの30歳にならないためにたくさんのことをはじめたけれど、それはすべてロボピッチャーのためだった。
音楽だけをやっててもダメなのだ。
毎晩家で一人でギターを弾いて、曲を作って、歌詞を書いて悦に入っていても何も変わらないし、誰も気づいてくれない。
もっと自分たちが若くて、運が良くて、東京の偉い誰かが見つけてくれていたら、ひょっとしたらその人が売るための全部のことをやってくれたかもしれない。
でも僕らはそうじゃなかった。
偉い人たちには選ばれず、運がよかったわけでもなく、若くもない。
もうこうなったら、とにかくまだ誰もやっていない方法で自分たちの音楽を届けなくちゃいけない。
やれることを全部やろうと思った。
これまでのささやかな人生の中で見たことや経験したことをすべて使って、ロボピッチャーを人々に知ってもらおうと思った。

ここからの人生はロボピッチャーを中心にいろんなことが巻き起こる。
ロボピッチャーのためにイベントを作り、ロボピッチャーのためにフリーペーパーを作り、ロボピッチャーのために人と出会い話し、ロボピッチャーのための時間が流れ始める。

だらだらと続いてきた僕の日陰人生が、やっと世の中に向けて本格的に何かを発信していくことになるのだけど、それはまた次回に!

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