MMTへの誤解を解く その4 時間差を橋渡しする触媒

“ 時間差を橋渡しする触媒 ”
——奇妙なサブタイトルですが、
何のことか、想像してみてほしいです。

今回は、少し盛りだくさんになりますが、
大切な話になりますので、
突っ込みどころを探しながらでも、
じっくりお読みいただけると幸いです。

MMTとは、日本語では「現代貨幣理論」です。
通貨とは何なのか、について語っているものです。
ここで貨幣観の理解が中途半端だと、
うっかりすると、話が噛み合わなくなってきます。

MMTを理解する上で、最も気をつけるべき点です。

     *****

第一回の投稿(11月13日の記事)では、
今の通貨、たとえば一万円札は「借用書」です、
という話をしました。
「借用書」と言っても、さて何のことかと
ピンとこない方もおられると思うので、
そこに軸足を置いて、話をしてみます。

お金の起源について説明する時、ありがちな物語として
「物々交換」の話が持ち出されることが、
よくあるかと思います。

本当に、物々交換で成り立つ社会が、ありえるのか?
本当に、かつて、そんな社会があったのか?
多分、無かったと思いますよ。

普通に考えてみて、物々交換が成立する場面って
けっこう珍しいことなのではないでしょうか。

昔の農村とかで、品質にムラの少ないお米が
土蔵の中に大量にある……みたいな特別な場合は、
その地域限定で、
ある程度の物々交換は可能だったかもしれませんね。

実際、江戸時代は幕府や藩が、租税としてお米を
公的に動かしていました。
しかし、当時の庶民の日々の暮らしの中では、
私的なお米のやり取りは一般的だったでしょうか。

     *****

<MMTの土台、信用貨幣論>

ここで、たとえ話です。

漁師が川で立派な鮭を一匹釣ったとします。
季節は秋でした。

いちごを栽培していた私は、その鮭がほしかった。
しかし今は秋なので、手元にいちごはない。
でも、鮭は、今手に入れないと腐ってしまう。

「いちごをあげるから鮭をちょうだい。
 でも、いちごは来年の春まで待ってね」

……と、こんな具合に、交換する物が今、手元にない
事が、ごく普通にあるわけです。

むしろ、世の中の取引の99.999%は、どちらか一方が
「今ここにない」シチュエーション
ではないでしょうか。

もしくは、何と交換するか?それすら決まっていない
こともありましょう。

そういう時、どうしますかね?

おそらく、何か約束事を記した紙切れを残すのでは
ないでしょうか? たとえば、

「先に鮭を1匹もらいました。
 来年の春にいちごを渡します」

これは借用書ですね。
私はこれを、鮭と引き換えに漁師に渡します。

これが「通貨」(信用貨幣)の原型です。

と言っても、「鮭」だの「いちご」だのと具体名が
記載されていたら、この紙切れは、私と漁師の間
でしか通用しない私的な借用書に過ぎません。

「鮭」だの「いちご」だのと言った個別の事情を消し、
金額だけ記したならば、まさしく「通貨」になります。

ただし……。
真の意味でこれが「通貨」であるためには、
これが私と漁師との間にとどまっていてはいけません。

この借用書を受け取った漁師が、更に、
これを第三者——たとえば、大工さんに渡して、
彼が作った木の椅子を受け取ったとします。

つまり、漁師は借用書を手放したわけですから、
もう、私から来年の春にいちごを受け取る権利は
手放したことになりますが、
その代わり、椅子を手に入れたことになります。

そもそも、漁師が私に「鮭」を渡したからこそ、
彼は、大工さんから「木の椅子」を受け取ることが
出来たわけです。

そして、借用書を受け取った大工さんは、
私からいちごを受け取ることが可能になります。

言葉にすると、面倒くさいですけれど、
借用書という紙切れを触媒として、生産物が、
三人の間で回ることになりますね。

逆に言うと、
もしも、この借用書が無かったとしたら、
同時に用意されているとは限らない3つの生産物、
 私の「いちご」
 漁師の「鮭」
 大工さんの「木の椅子」
これらは、はたして交換がなされたでしょうか?

いつ収穫されるかわからない「いちご」
いつ捕獲できるかわからない「鮭」
いつ出来上がるかわからない「木の椅子」

たったの三人の間の出来事ですから、
借用書なんか無くても、たまたま交換が成立する
事があるかもしれませんが、
五人、十人、百人、千人…と登場人物がもっと増えて、
やり取りが網目のように複雑になって、
ネットワークとして拡がったらどうでしょうか?

借用書のおかげで、
流通が発生するということが、これで見えてくるのでは
ないでしょうか。

逆に、もしも……
上記の3つが同時に交換できたとしたら、
借用書、つまり「通貨」は不要ですね。
実際には、時間差が、どうしても生ずるからこそ、
借用書、つまり「通貨」が必要になるわけです。

     *****

しかし……と思われる方もいらっしゃるでしょう。

登場人物が増えれば、
いったい誰が書いたのかわからない借用書なんか
「受け取れない」
という事態が発生しますよね。

もしも、世の中が善良な人たちばかりで、
皆が皆を信用し合っている社会があったとしたら、
そこでは、そういう手書きの借用書でも
通用するのかもしれませんが、
普通は無理ですね(※)。

だからこそ、国家が「汎用の借用書」として、
金額だけを記した
公認の「通貨」を発行するわけですね。

(※)手書きの私的な通貨も存在します。
   小切手という借用書です。

ちなみに、私的であれ公的であれ、
借用書(債務と債権)が発生する事を
     「信用創造」
といいます。もって回った意味不明の日本語ですが、
英語ではあからさまに
     「Money Creation」
つまり「貨幣の創出」と表現しています。

「信用創造」については、学校の教科書をはじめ、
世間では、間違った説明がなされていますが、
これが本来の意味です。

     *****

今回、「通貨」の役割を表現するのに「触媒」という
言葉を使ってみました。
私の中では、お金やモノ・サービスの流れと
身体の中で起きている食物などの代謝のイメージが
重なるのです。

身体の中に「触媒」としての酵素が豊富にある人は、
代謝がスムーズで健康です。

同様に
「触媒」として「通貨」が適切に供給されている社会は
健全な流通が実現します。

「通貨」の供給が多すぎるとインフレになり、
少なすぎるとデフレになりますが、

今の日本社会は、官僚・政治家たちの勘違いによって、
「通貨」の供給が非常に不足しており、
デフレ状態です。
国民の貧困化が深刻です。

にもかかわらず、
不足を補うために、通貨の供給を企図すると、
勘違いしている経済学者や政治家がこぞって
 「バラマキ」
などと的外れの批判をするのです。

バラマキ —— この言葉を使う経済学者・評論家を
信用していると、とんでもないことになります。

     *****

以上のように、
「通貨」が「借用書」であるならば(信用貨幣論)、
金貨・銀貨などの貴金属を持たない一般庶民でも、
マーケットに参加する敷居を低くすることが出来る
わけです。

ここで更に話を一歩進めてみます。
では、通貨は「紙」である必要があるのでしょうか?
(硬貨の話は、ひとまず置いておきます)

取引の場面で「貸した」「借りた」の記録を
明確に残す(そして知らせる)ことさえできれば、
必ずしも紙を必要としないのではないでしょうか?

たとえば電気信号でもOKということになりませんか?

ということは、「振り込み」「電子送金」も
簡単にできることになります。

もしも……、もしもですよ、
「通貨は金貨や銀貨のように、それ自体が
 価値を包含するものである」(商品貨幣論)
とするならば、
「送金してください」
と依頼を受けた場合、どうするのでしょうか?
現代は「金本位制」ではありませんから、「通貨」は
GOLD や SILVER と紐付けられていません。

実際に金貨や銀貨のような現物を輸送しなければ
ならなくなります。

電気信号による「送金」は出来ないことになります。

逆に言うと、
「振り込み」「送金」が実際に行われている事実が、
「通貨」は信用貨幣(=借用書)であることを
証明していると言えるわけです。

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