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万物に感謝、と、自分の暮らしを散歩から考える。

 今の暮らしが一番だと考えることは危うい。

 こう考えるきっかけになったのは、ぼくが散歩をしているときだ。
 ぼくは留年することになってから、よく歩くようにしている。近所を散歩するときもあれば、一時間ほど歩いて高校の校舎のあたりをフラフラすることもある。

 留年するようになってから、学費のことをよく考える。
 そもそも留年したのがぼくの単位不足であるから、今までのように学費は親に負担してもらうのではなく、自費で賄おうとしていた。
 しかし、学費は大学差はあれど、半期分であればだいたい40~50万円かかる。とにかく、貯金を考慮してもギリギリ足りないことが判明した。


お金が足りないということ。

 恥ずかしながら、お金が足りないという感覚を理解するのに時間がかかってしまった。なぜなら、現状を維持するのにお金が足りない経験がなかったからだ。
 実家が裕福であったわけではない。かといって極貧ということではないが、親は離婚しているし、父の年収もおそらく400万はいっていないのではないか。学費は父に全額払ってもらっていたが、月五万の奨学金は親に渡していた。

 そしてぼくは学生時代のほとんどでバイト漬けの日々を過ごしていた。お金を稼ぐ意識ではなく、純粋に楽しいからだった。辛くはあったが、働く意義はあったと信じていた。
 そんな理由であったから、給料が振り込まれていても、自分が稼いでいる実感がなかった。とにかく、控除を除いて15万ほどが手取りであったから、気が乗ったらお金を使う感覚が楽しかった。

 そんなぼくだから、バイトをやめ、学費を自費で払う今、現状維持にお金が足りないという感覚を理解するのに時間がかかっているというわけである。


散歩をしていると、だんだん自分の生活はどうやって成り立っていたのか考えるようになる。

 その発端は違和感から始まる。
 目につく建物だとか人だとか商店だとか銭湯だとか学校だとか、そこにあることは前から知っていたのに、頭の中をすっからかんのまま眺めると不思議なことに、歴史のことを考えるようになる。前にあるもの全てが誰かのきっかけだったり、大切なものに違いない。そう考えていくようになる。
 そして物理的に存在するリアルな街は、誰かが働いた証拠であることを肌感覚で匂わせる。それがぼくにとっては、とても新鮮だと思った。

 おそらく当たり前なのであろうが、おおよその人は働くことでお金を手に入れる。仕事とはおおよそが作業で、人によっては仕事は生活を満たすための一手段に過ぎなかったり、人生の主軸であったりする。

 ぼくの父の話によると、仕事とはお金のためであり、生活維持のためであるという。だから、自分の存在証明のために仕事があるわけではないと言う。
 ぼくはこの考えがステキであると思っている。
 いつもの街から感じたリアリティは、自分の生活があらゆる営みの上で成り立つという気づきをぼくに与えていた。
 いつもの街は、実はそれぞれの人がそれぞれの生活を維持するための仕事という営みを経た生産物で、それはいつも誰かのために機能するという構造をとっている。健全な生活様式とは、そういうことかもしれないと感じた。


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もう少し複眼的に考える。

 以上が散歩をして気づいたことだが、それは所詮、一個人が呆然と感じた一感情であるから、事実は異なることも認識しておかなければならないとも思っている。
 ぼくが上記で言及した生活とか社会的意義とか成果物は目につくところの範囲のものであって、見えないところには考えは及んでいない。だから、今の世界の生活に満足することは美しいけれど、外の世界を知って、何かをすることにも美しいのかもしれない、とも思っている。

 近所の街は多くの人の成果物で成り立っていて、それらには感謝しなければいけないことをぼくは認識したが、狭い世界に安住することは結局のところ、そのほかの美しさから目を背けてしまう危険性も孕んでいるかもしれないことも認識した。
 その流れで、他の世界を知ることにはそれほどの価値があることも認識した。多くの人が知的欲求なるものを抱える時には、おそらくこんな感情を得ているかもしれないな、と思った。

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