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【レビュー】『少女邂逅』“ここではないどこか”を巡る物語の幻想

“ここではないどこか”を“何者でもない私”が夢想し、追い求め、つまらない現実から抜け出していく。
そんなストーリーは何度も何度も繰り返され、若者を魅了し続けてきた。
まだ見ぬ世界への期待は、世界中の若者を惹きつけてきた。

『少女邂逅』もまた、そんなパワフルな物語構造をなぞっているかのように見えるが、物語は類型から外れていく。監督の枝優花は、自らの分身としてありえたかもしれない2人の少女に通り一遍の救いを与えない。(あくまで“通り一遍の救い”ではないのであって、主人公がラストにするあの選択がある種の救いであることは付記しておく。)

『少女邂逅』鑑賞後に残る余韻は、少女を囲い込む世界の寒々しさと少女を見つめる視線の優しさが歪な形で同居しつつ、観客が予想するところの物語的な心地良さに陥らないところから生じている。それは、“ここではないどこか”を巡る物語の多くが、カタルシスを伴って居場所を変えた主人公を祝福するものばかりであることへのアンチテーゼとすら感じられる。

世界と対峙した果てに少女たちが見る景色は、その先の未来を想像すると今までの現実と地続きの風景が広がっているようで、どこか寒々しい。この寒々しさは、誰しもが経験してきた青春の寒々しさ、“誰も私を救ってはくれないこと”に気付いてしまった青春時代の恐れにも似た寒々しさだ。
あの電車を乗り継いだ先にミユリが至る場所は、本当に理想の地なのだろうか?何者でもないミユリを何者かにしてくれる、ここではないどこかなのだろうか?ミユリは何を見失ってしまったのだろうか?

『少女邂逅』は“蚕”というモチーフによって、“居場所がない少女”の物語を語る。
“蚕”は白い繭で身を守り、繭が絡まるのを避けるために仕切りで分けられて管理され、2日で死んでいく。蚕をめぐるエピソードのどれもが“居場所がない少女”の物語に重ねられ、映画は進んでいく。そして、言葉遊びでしかなかっただろう“蚕”と“邂逅”は、まるでそれが元々1つの言葉であったかのような結び付きを映画の中で獲得していく。

ミユリが蚕に、そして蚕と同じ名を持つ紬に魅せられていくのは必然だ。自分にとって最も愛おしい存在である“蚕”と同質の存在である紬、そんな紬との邂逅は、ミユリと世界との関係性を変化させてゆく。ミユリを“ここではないどこか”にしきりに急き立てる紬は、ミユリの変化の触媒であり、ミユリを変態させるイマジナリーフレンドのような存在である。
そして、紬が発するメッセージはシンプルだ。「こんな窮屈な世界から逃げ出して、もっと広い世界に出よう。あなたが想像しているよりもっともっと世界は広いのだから」。
それはどこにも“居場所”がない少女をエンパワーするに足るメッセージだが、ともすれば“居場所”の問題だけに帰結してしまう危うさも孕んでいる。

ミユリは紬の助言の下、髪形を変える。それはほんのちっぽけな外見の変化だが、学校のクラスメイトはミユリへの見方を変え、彼女たちはミユリの味方になる。紬しか味方がいなかったはずのミユリの世界が変容していく。しかし、ミユリは変わっていない。実のところミユリの世界は変化していない。変わったのは外見であり、身体だけ。ミユリの世界が変わったのではなく、ミユリを見る他者の見方が変わっただけだ。
学校の中で会話ができる友達ができたことは、ある光をもたらしてくれた。その光の明るさにミユリは戸惑う。紬が見えなくなってしまうほどの明るさを手に入れた時、ミユリは紬を失うことへの恐れから、紬との関係性の本質を見失ってしまう。”光”に慣れていないからなのか、ミユリは紬を手放してしまう。紬は自分の手元から離れていってしまう。

スプリットスクリーンによって提示される2つの画面の対比は象徴的だ。右の画面に映されるのは、スマートフォンを通して映される近視眼的な世界の見方であり、左の画面に映されるのは、俯瞰的な世界の見方である。前者は暖かで、躍動的で、世界を肯定する視線だが、後者は寒々しく、生命力に欠け、変わらない世界を冷徹に見据えている。
視点の位置を変えるだけで世界は姿を変え、今までとは別の人生を選択しうるということが救いになることはある。けれど、変わった後の世界はいつまでも人を救い続けてはくれない。というよりも、世界は厳然と存在し続け、ともすると何も変わっていない。スプリットされた画面の右側に映された映像が、左の映像の侵食を受けずに存在するためには何が必要なのか?

ある疑念を抱いてしまったミユリが夢で出会うのは、心を失った人形が山積みになった部屋に立つ紬である。
山積みの人形を見下ろして、ある苛立ちと共に声を荒げる紬の「女って身体しか価値がない」「心はあっても面倒なだけ」という言葉は、「どうしてあの時助けてくれなかったの?」という祈りに似た言葉に帰結する。
紬には時間がない。今の残酷な現実に耐えるのはもう無理だ。痛みを感じることもできず、”身体”にしか価値を見出せない紬にとって、この不自由で窮屈な世界で生きることは死ぬことと同義だ。

紬との沖縄旅行は、2人にとって新しい関係性を手に入れるための最後の”糸”だった。ミユリが紬を救いうる最後の”糸”だった。その糸を手放してしまったのはミユリ自身である。紬への想いを失うことがなくても、紬の太ももから見えた糸をミユリは受け入れることができなかった。ミユリは最後の最後で紬の”身体”だけしか見ていなかったのかもしれない。
紬を失った瞬間に自分の世界が崩壊してしまうことへの本能的な恐れを感じていたかもしれないのに、平然で自分の身体を傷付け白い糸を生み出す紬の”身体”を、SEXをしたことのある紬の“身体”を、ミユリは信用することができなかった。

物語のラストでも少女たちの世界はどこか息苦しい。紬はある残酷な現実の中で消え去っていくし、ミユリはようやく“ここではないどこか”へ向かう道中で自らを傷付ける。
なるほどミユリは、映画の最初では変身願望の表れであるリストカットをすることができなかった。その意味では何かしらの変化はあるのかもしれない。ある重要な一歩は踏み出した。
しかし、ミユリにとっての“ここではないどこか”は、紬と行くはずだった沖縄にしかない。自分のSOSを見つけて救ってくれた紬のSOSに気付かなかったミユリ。気付くきっかけはあったのに見えないことにしたミユリ。彼女が依存とは別の関係性で紬と繋がる未来、端的に紬を救う未来は、あの沖縄への逃避行にしか見えない。
そこは他者に依存すること、救いを求めることを肯定する場所ではない。他者との出会いの中で今の自分を受け入れ、自分が自分を変えるための場所。自分の人生を誰のものでもなく自分の手元に引き戻すための場所。そして、それによって誰かを救いうる場所。

ミユリが向かうことになる東京は、彼女に残された選択肢の中で選んだ“居場所”でしかなく、ミユリが本質的な意味において変わるための“居場所”には思えない。ミユリにとっての“ここではないどこか”は、変態を促してくれる紬といる“あの瞬間のあの場所”であり、消去法的な選択の結果によって“ここ”から抜け出すことで辿り着ける場所ではない。

ラストカットに至って、今まで見てきた映画の記憶を想起させられる。「人が一生のうちに親友と出会える確率が24億分の1らしい」という、あの紬の声。「私が君の価値を見つけてあげる」と言い放つ、あの紬の姿。
人は人と出会い、向き合うことでしか自分を知ることができない。そして何より、自分を変えられない。 “人と人との奇跡的な確率の邂逅”がもたらしてくれるのは、あくまでその入り口までだ。その先の扉を開くためには、居場所も含めて“今の自分”を受け入れるしかない。受け入れた上で自分を変態させていくしかない。

ミユリにとって紬との出会いがどれだけの価値があり、どれだけ奇跡的な煌めきであるかは、全てが終わった後にしかわからない。その煌めきは、人間のある側面を見えなくさせるには十分な光を放っている。だからこそ、煌めいているその最中では見えないことがある。煌めきが消え、影がなくなり、その見えなかった側面に気付いた時にはもう遅い。何もかもが見えていたはずなのに、あまりに多くのことが見えていなかった。そして、なんでそんな簡単なことが、目の前にあったものが見えなかったんだろうかと悔やみ、悩み、過ぎ去ってしまった時間の尊さを噛みしめる。

『少女邂逅』は、多くの映画が描いてきただろう「“ここではないどこか”を巡る物語」の定型とそれによる物語的カタルシスを拒否してしまう。そう、それは“居場所”の問題では無かったのだ。その素振り、その態度にこそ、筆者はある希望と救いを垣間見る。

Text by 菊地陽介

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