見出し画像

統合される価値観と内在している価値観

価値観:ある物事にどういう価値を認められるかについての、それぞれの人の考え方。
統合:2つ以上のものをまとめて1つにすること。また、1つになること。

なぜ日本の道路にはゴミが落ちていないのか


海外から日本に来る学生は、みんな日本に興味を持ってくれます。日本について分からないところ、理解できないところについて様々な質問をしてくれます。なぜ日本では小さい車ばかり走っているのか、日本企業のインターンシップの仕組みはどうなっているのか、なぜクラスのグループやまとまりは男女で分かれやすいのか、、、答えていると、海外各国と日本の文化や習性の違いがわかって面白いです。答えている自分も含めた、日本人のいやらしいところが見えたりします。

様々な質問の中で、今までで最も答えに困った質問は、「なぜ日本の道路は綺麗なのか?」でした。それに対して「道路を歩いているときに出たゴミは、コンビニのゴミ箱に捨てているからだと思う。本当は良くないけど。コンビニは数百メートル圏内に1個はあるくらい、そこら中にたくさんあるから」と答えました。しかしこれでは全く質問に対する答えになっていません。実際コンビニのゴミ箱を使うことなんて滅多にありませんし、ほとんどの場合手持ちのバッグの中にキープして、家か駅のゴミ箱に捨てている気がします。

行ったところだと、グラスゴーもミラノも、道路が非常に汚なかったです。ゴミが散乱しています。街の中心部ほど汚いです。しかし、ヨーロッパの道は、特に町の中心部にはそこら中にゴミ箱が設置してあります。体感で50メートル以内の間隔で設置されています。しかも日本のコンビニと違い、分別の必要はなくペットボトルも紙も何でも同じゴミ箱に捨てています。日本よりもよっぽど簡単にゴミ箱を使えるはずなのに、日本と比較にならないくらいゴミが散乱しています。

なので、道路が綺麗である理由はゴミ箱ではありません。そうなると、考えられるのは日本人の習性です。ゴミをポイッと気軽に投げられないんでしょう。きっと恥の意識を感じるのでしょう。「ポイ捨て=恥」と刷り込まれているんだと思います。そして「誰かが見ているかもしれない」と考えるからだと思います。

日本の監視社会

監視:悪い行為が行われないように、人の行動を注意して見張ること

目立った行動をしたくない、と考えることがよくあります。誰かが見ていると感じるからです。目立った行動=「悪い行為」なのかもしれない。例えば道端ですれ違う老人に監視され、大学のグループワークのメンバーに監視されています。誰も意識的に監視しているわけではありません。実際に自分が監視していると考えている人はいないでしょう。しかし、誰かに監視されていると感じる、人の目を気にするというのは日本人に特に多い考え方だと思います。

誰もが監視者であり、同時に監視されていると思うんです。監視とは、「悪い行為」が行われないように見張ることです。日本の道路がきれいで、治安が良いのは日本が心理的に監視社会を構成しているからです。「良い行為」と「悪い行為」を決めているのは誰でしょうか?

日本人はチームワークが得意です。空気を読み、察する能力に長けています。空気を作り出し、空気に従ってその場で自分のできる最良の行動を導き出します。空気とは、その場での「良い行為」と「悪い行為」を決めている監督のようなものかもしれません。ひとりひとりの人間が空気の素となり、一緒になってひとつの空気を作り、そして空気の定めている「良い行為」に従って行動します。

空気が成長し、ひとつの文化圏で共有され、それなりに歴史が積み重なって空気が一つに統合されていくと常識やマナーの類いになっていくのかもしれません。

空気をうまく使う

常識:一般の社会人が共通に持っている(持つべき)知識あるいは判断力。コモンセンス。

空気にはうまく順応する必要があります。空気を読むのは正直疲れますけど、順応すれば良いことがたくさんあると思います。

まずは協調性です。空気を共有することで、チームワークの効率は非常に良くなります。空気を共有するとは、その場での「判断力」が共有されることだと思います。共有された判断力に基づいて、「良い行為」を選び取ることができます。人間同士が手を取り合うには、判断力を共有するのが一番早く効率的なんだと思います。

初めて会った人同士でも、空気を共有すればすぐに仲良くなることができます。「良い行為」をお互いにし合えばいいので簡単です。誰とでも最初は「良い行為」をしあって仲良くなることから始めなければいけません。空気を共有する能力は特に社会人に必須のスキルなのだと思います。

次に秩序を保つことができることです。日本は心理的に監視社会を構築していますが、リアルにトップダウンで監視社会を構築することだってできます。しかし日本はそれをする必要はありません。日本は本当に安全な国です。お互いに「良い行為」と「悪い行為」を察するように定義し、監視される中で恥をかくことを恐れているからです。コロナに対しても、ぼくの拙い視点からですが、日本は外出の罰則を法律的に設けられない中でよくやっていると思います。

しかし空気との向き合い方によっては問題も起こると思います。

統合される価値観

価値観:ある物事にどういう価値を認められるかについての、それぞれの人の考え方。

単刀直入に、空気はものごとの価値を一意的に決めてしまう面があると思います。人々の持つ価値観を統合してしまうんです。

インターネットの発達で、誰でも自分の考え方を共有できるようになりました。空気の作られ方も変わっていると思います。その場その場のリアルな状況の中で空気が醸成されていたのに対し、今ではインターネットの中でも空気が作られるようになりました。空気は距離や時間を超えて共有されるようになりました。なんというか、空気が一つの怪物のように成長しているような気がします。一人一人が空気の素を発して醸成されているのですが、もはや誰もコントロールしていません。しかし皆空気に従います。

また、理想的な生き方とか、人生における豊かさの基準とか、そういった像が一つに収束していってしまっていると感じます。人としての目標像、理想像が収束していっているんですが、現実離れしている感じです。日本は鬱になりやすいのもなんとなく納得できます。

人々の行動の良し悪しを、空気が定める統合された価値観が決めているんです。空気が定める価値観で日々の行動や購買物を選んでいっても、おそらく幸せを感じるし他人からもそう見えると思います。しかし「幸せに感じる、見える」という視点もまた空気が定める価値観です。皆が現実離れした理想像に向かって一直線に物事を消費していく感じです。

個々人に内在している「これは良い」という判断に頼ることをやめたとき、人間は完全に空気の奴隷となると思います。人々に共有されている「個々人の文脈を無視した、現実離れしている、人としてあるべき理想像」をひたすらに追うようになります。

個々人に内在している価値観

空気が人に与える「統合された価値観」に対抗するのは、「個々人に内在している価値観」だと思います。

勝手な想像ですが、日本人は個々人に内在している価値観に自信を持てない傾向みたいなものがある気がします。もしくは、一般的に子供から大人へ育つ中で、内在している価値観を持つ・育てるトレーニングをしていないのかもしれません。大きな理由は、たぶん、監視しあって空気を読むことを重視する文化があるからです。

個々人に内在している価値観で物事を選び取っていくことができないと、空気に呑まれます。空気に呑まれたままで物事の判断を行い続けても、空気の提供する統合された価値観で見れば、豊かに見えますが、内在する価値観で見れば個々の人生が豊かに見えるとは思えません。薄っぺらい例だと、インスタで大量にいいねをもらう過ごし方と、本人にとって本当に豊かな過ごし方が同じになるとは限らないということです。

社会との関わりを持つ以上、統合される価値観を武器にして襲ってくる監視の目からは逃れることができないと思います。統合される価値観に対してもある程度ついていかなければ、きっと周りから人間として見られなくなります。しかし、統合される価値観に沿って人生を過ごしたくありません。

ですので、統合される価値観と、自分に内在している価値観と分けて考えられるかどうかが大事だと思います。ものごとに対して価値観を行使して判断を行う際に、使っている価値観はどちらの価値観か。どちらの価値観において、価値を感じたのか。物事に対して価値を認めるときに、常にどちらの価値観で物事を見ているのか自問自答します。「良い」と物事に価値を認めるとき、それは社会の持つ空気がそう思わせているのか、自分に内在している価値観がそう思わせているのか。価値観の使い分けは常日頃の行動選択から始まっています。

まとめ

結局、最後はまたデザインはどうすべきかという話になってしまうんですが…

ここでは、デザインとは「人の豊かさを求める行為」だとします。

人々の中に内在している価値観は、それぞれの人の豊かさに直結する鍵だと思います。今の時代は、個人個人の文脈・視点・価値観から見た豊かさを追求することに意味があります。

デザインができることとして、今ある程度具体的に思いつくのはこの2つです。

・ユーザー個々人から価値観を掘り出して、アイデアとして形にする。(サービスデザインの第一歩)
・ユーザーが自分の中に内在している価値観を自ら発見できるような体験を作る。

*最近は後者がお気に入りです。自己発見の体験は、自己と他人の比較から生まれると思います。自己と他人の関係性、共通点、相違点などを新しい方法で知覚できたとき、内在していたけど知らなかった自己を発見できるかもしれないと思います。

自分の中に新しい価値観を見つける機会が多くなっていけば、人々が自ずから自分にとっての豊かさを追求することができるようになります。そしたら、もっと楽しく面白い社会になっていくと思います。

以上です。ここまで読んでいただきありがとうございました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?